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八上城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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波多野氏が丹波支配の拠点とした城で、[[黒井城]]・[[丹波八木城]]とともに「丹波三大山城」に数えられる。
波多野氏の出自は不明だが、応仁の乱の功で丹波守護細川氏から丹波多紀郡に所領を与えられた波多野秀長が丹波領主・波多野氏としての始まりで、その子・稙通が丹波一国に勢力を広げ、永正12年(1515年)に八上城を築き居城とした。
八上城は篠山盆地の中央部、「丹波富士」と呼ばれる標高約460メートルの高城山に築かれ、支城の法光寺山城が城下を挟んで配置された、典型的な中世山城だった。

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稙通は八上城を拠点に守護代内藤氏、守護細川氏を破り、大永6年(1526年)に丹波統一を達成した。
しかし稙通の子・晴通は三好氏と対立したことから八上城は三好氏の攻撃を受け、再三に渡って撃退したものの、弘治3年(1557年)に松永久秀によって落城した。
久秀の弟・長頼はかつて波多野氏が討った内藤氏を継承して内藤宗勝を名乗り、八上城主として丹波を支配した。
宗勝は永禄8年(1565年)に黒井城を攻撃中に戦死し、波多野氏は晴通の子・秀治が久秀の甥・孫六が守る八上城を奪還、丹波領主に復帰した。
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秀治は織田信長が上洛するとこれに従ったが、天正4年(1576年)、信長の命で丹波平定を進めていた明智光秀が黒井城を攻撃中に、突如として裏切り光秀を撃退し丹波の支配権を奪った。
翌年、光秀は再び丹波に侵攻し八上城を包囲したが、天険の要害である八上城を攻めあぐね、また[[石山本願寺>石山御坊]]や[[有岡城]]の荒木村重との戦いも並行して進められていたため、八上城攻めは遅々として進まなかった。
しかし光秀は園部城や氷上山城など波多野方の城を次々と落として八上城の孤立化を図り、ついに天正7年(1579年)に八上城が落城し、波多野氏は滅亡した。
その後は光秀や前田玄以の支配下に置かれ、関ヶ原の戦い後は玄以の子・茂勝、松平康重が城主となり、康重が[[篠山城]]に移ると八上城は廃城となった。

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|所在地|兵庫県篠山市八上|
|所在地|兵庫県丹波篠山市八上|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|連郭式山城|
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