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> 黒羽城
黒羽城
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*コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 下野の名門那須氏の重臣で、「那須七騎」の筆頭として活躍した大関氏の居城。 大関氏は元々は武蔵七党の一つである丹党の出身で、那須氏に仕えて那須地域に勢力を築き、次第に主家を軽んじるほどの権勢を持つようになっていった。 白旗城、八幡館、大関城などが大関氏の本拠だったが、このうち大関増雄が15世紀後半に築いた八幡館が黒羽城の前身にあたる。 増雄の子宗増は那須氏の内紛に乗じ、同じく那須七騎の一人だった大田原資清を追放し実権を握った。しかし資清は越前朝倉氏の支援もあって那須に復帰し、宗増の嫡男増次を殺し、自身の嫡男である高増を大関氏の養嗣子とした。 こうして大関氏を乗っ取る形となった高増はやがて那須氏とも対立し、敗れたものの和睦し那須七騎の筆頭となった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ この高増が天正4年(1576年)に築き、白旗城から居城を移したのが黒羽城で、2年後に家督を次男の清増に譲ったものの実権は握り続けた。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、主家の那須氏が後北条方にも豊臣方にもつかずに取り潰された一方、高増はいち早く豊臣方に参陣し大関氏は独立した大名として認められた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は高増の子資増は東軍に参加し、徳川家康は会津の上杉景勝に対する抑えとして黒羽城を重視し、『寛政重修諸家譜』によると榊原康政の家臣伊奈主水が黒羽城の修造を行ったという。 戦後大関氏はその功により加増され2万石となり、資増は黒羽藩の初代藩主となった。黒羽藩は4代藩主増親の代に弟2人に1000石を分け与えたため1万8000石となり、以後はこの石高のまま16代まで続き明治維新に至った。 黒羽城は5代藩主増栄の代に本丸が造営されたがその後度々火災に遭い、文政5年(1822年)には城内の居館が全焼した。すぐに復興が進められ居館は翌年に再建されたものの全ての建物が再建されることはなく、明治4年(1871年)に廃城となった。 #br 黒羽城は那珂川とその支流の松葉川に挟まれた丘陵上に立地し、東西両側が断崖絶壁という天然の要害だった。 城域は東西約250メートル、南北約1500メートルと細長く、周囲を髙い土塁と空堀で囲まれた本丸を中心に、北には土蔵や武家屋敷があった二の丸が、南には大型の角馬出となっている馬出曲輪が置かれ、これらを北・東・南の三方から三の丸が囲んだ。 三の丸の南の大手口には土塁で囲まれた大雄寺があり、出丸の機能も持っていた。大雄寺は大関氏の菩提寺でもあり、現在も大関氏累代の墓がある。 城域のほとんどは土塁と空堀がめぐらされているが一部には水堀もあり、三の丸の東側で見ることができる。 黒羽城の遺構としては土塁と空堀が良好に残っており、特に本丸南側の馬出曲輪との間の空堀は薬研堀で深さ約15メートル、幅約20メートルあり、その堀底は西側で帯曲輪、東側で本丸虎口にあたる九鶴門に通じ、当時は廊下橋が架けられ本丸と馬出曲輪をつないでいた。 九鶴門は枡形虎口で櫓門などが設けられ、三の丸大手の黒門にも櫓門が築かれた。黒門は関ヶ原の戦いの際に徳川氏の援助で築かれたといい、中門、北坂門や多くの堀もこの時に築かれ、黒羽城の縄張はこの徳川氏による改修によって完成したと考えられている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|栃木県大田原市| |現存状態|土塁、空堀など| |城郭構造|連郭式・梯郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)