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> 飯山城
飯山城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 信濃・越後の国境に位置し、武田信玄と上杉謙信が激しい攻防戦を繰り広げた境目の城。 飯山城が築かれた地は関田峠を越えて頸城平野(高田平野)へ、千曲川に沿って十日町方面へ通じるなど、信濃と越後とを結ぶ交通の要衝であり、築城当初は関田峠越えの道が通る北側が大手だったと思われる。 城は現在の飯山市街地北部の独立丘陵上に築かれ、この丘陵が飯を盛ったような形をしていることが「飯山」の由来ともされる。城の東には千曲川、北には皿川が流れて天然の水堀となり、西と南は湿地帯が広がるというまさに天然の要害だった。 城主は飯山盆地の常岩牧一帯を支配していた豪族である泉氏で、永禄年間(1558~1570年)の「上杉輝虎書状案」には、「弥七郎(泉十蔵)は城ぬしであるから、実城をもとのように守るように」と記されている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 武田信玄が村上義清の[[砥石城]]や[[葛尾城]]を奪うなど信濃攻略を本格的に進めるようになると、天文22年(1553年)頃には北信濃が残るのみとなった。北信濃の諸将は越後の長尾氏と姻戚関係にある信濃中野の高梨氏を通じて長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請し、第一次川中島の戦いの戦いとなった。 しかし信玄によって北信濃の諸将の一族や家臣が調略され、弘治3年(1557年)に高梨政頼は本拠の高梨氏館(中野城)を追われ、支城である飯山城へと退去しその城将となった。 永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い後に北信濃は信玄が支配するようになり、上杉方の防衛線が飯山城にまで後退したため、謙信は飯山城の本格的な普請に着手した。同年10月2日付の「上杉輝虎書状案」には「飯山普請悉く成就候間、昨日馬を納め候」とあり、現在の城の姿はこの頃に出来上がったとされ、文書には「実城」「ニのくるわ」などの記述も見られる。 永禄11年(1568年)、信玄は長沼城を拠点として飯山城周辺に攻勢をかけ上蔵城が落城した。しかし飯山城は落城せずに抵抗を続け、謙信は書状で「飯山衆の勇戦ぶりを範に、関山城を守るように」と命じたように、飯山城兵の奮戦ぶりを記している。 謙信死後に上杉氏の家督を継いだ景勝は武田勝頼との和睦のために飯山城を譲ったが、天正10年(1582年)に武田氏が滅びると飯山城は再び景勝が支配し、城将として岩井信能が入った。飯山の城下町はこの頃につくられたという。 #br 江戸時代には飯山藩が成立し藩主が度々代わったが、享保2年(1717年)に入った本多助芳以降は本多氏が代々藩主を務め明治維新に至った。 明治元年(1868年)には旧幕府側の衝鋒隊が飯山に侵攻し、新政府側の飯山藩兵とが戦った飯山戦争が勃発した。この時城下は戦火に遭ったが飯山城は戦火を免れたものの、廃藩置県後に飯山城の建物は取り壊されたり火災で焼失したりしたが、大手門は長野市の信叟寺に移築されている。 現在の飯山城は南から北に本丸・二の丸・三の丸と並び、西側に西郭がある。本丸と二の丸の間には石垣が築かれ枡形が設けられており、石垣は近世の技術である打込み接ぎであるため、江戸時代に築かれたものと考えられる。 城の周囲にめぐらされていた水堀は現在住宅地や畑となって失われているが、飯山市は水堀を含めかつての飯山城の姿を復元する計画を進めている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長野県飯山市飯山| |現存状態|土塁、石垣など| |城郭構造|梯郭式平山城|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 信濃・越後の国境に位置し、武田信玄と上杉謙信が激しい攻防戦を繰り広げた境目の城。 飯山城が築かれた地は関田峠を越えて頸城平野(高田平野)へ、千曲川に沿って十日町方面へ通じるなど、信濃と越後とを結ぶ交通の要衝であり、築城当初は関田峠越えの道が通る北側が大手だったと思われる。 城は現在の飯山市街地北部の独立丘陵上に築かれ、この丘陵が飯を盛ったような形をしていることが「飯山」の由来ともされる。城の東には千曲川、北には皿川が流れて天然の水堀となり、西と南は湿地帯が広がるというまさに天然の要害だった。 城主は飯山盆地の常岩牧一帯を支配していた豪族である泉氏で、永禄年間(1558~1570年)の「上杉輝虎書状案」には、「弥七郎(泉十蔵)は城ぬしであるから、実城をもとのように守るように」と記されている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 武田信玄が村上義清の[[砥石城]]や[[葛尾城]]を奪うなど信濃攻略を本格的に進めるようになると、天文22年(1553年)頃には北信濃が残るのみとなった。北信濃の諸将は越後の長尾氏と姻戚関係にある信濃中野の高梨氏を通じて長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請し、第一次川中島の戦いの戦いとなった。 しかし信玄によって北信濃の諸将の一族や家臣が調略され、弘治3年(1557年)に高梨政頼は本拠の高梨氏館(中野城)を追われ、支城である飯山城へと退去しその城将となった。 永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い後に北信濃は信玄が支配するようになり、上杉方の防衛線が飯山城にまで後退したため、謙信は飯山城の本格的な普請に着手した。同年10月2日付の「上杉輝虎書状案」には「飯山普請悉く成就候間、昨日馬を納め候」とあり、現在の城の姿はこの頃に出来上がったとされ、文書には「実城」「ニのくるわ」などの記述も見られる。 永禄11年(1568年)、信玄は長沼城を拠点として飯山城周辺に攻勢をかけ上蔵城が落城した。しかし飯山城は落城せずに抵抗を続け、謙信は書状で「飯山衆の勇戦ぶりを範に、関山城を守るように」と命じたように、飯山城兵の奮戦ぶりを記している。 謙信死後に上杉氏の家督を継いだ景勝は武田勝頼との和睦のために飯山城を譲ったが、天正10年(1582年)に武田氏が滅びると飯山城は再び景勝が支配し、城将として岩井信能が入った。飯山の城下町はこの頃につくられたという。 #br 江戸時代には飯山藩が成立し藩主が度々代わったが、享保2年(1717年)に入った本多助芳以降は本多氏が代々藩主を務め明治維新に至った。 明治元年(1868年)には旧幕府側の衝鋒隊が飯山に侵攻し、新政府側の飯山藩兵とが戦った飯山戦争が勃発した。この時城下は戦火に遭ったが飯山城は戦火を免れたものの、廃藩置県後に飯山城の建物は取り壊されたり火災で焼失したりしたが、大手門は長野市の信叟寺に移築されている。 現在の飯山城は南から北に本丸・二の丸・三の丸と並び、西側に西郭がある。本丸と二の丸の間には石垣が築かれ枡形が設けられており、石垣は近世の技術である打込み接ぎであるため、江戸時代に築かれたものと考えられる。 城の周囲にめぐらされていた水堀は現在住宅地や畑となって失われているが、飯山市は水堀を含めかつての飯山城の姿を復元する計画を進めている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長野県飯山市飯山| |現存状態|土塁、石垣など| |城郭構造|梯郭式平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)