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> 砥石城
砥石城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 砥石城(といしじょう)は現在の長野県上田市にあった城である。形式は連郭式山城であり、別名「戸石城」とも言う。『長野県町村誌』によると、城のある山から砥石となる石が産出されることが「砥石」の地名の由来という。 築城年代や築城当時の状況などは定かではないが、真田氏の外城として建てられたのが始まりとする説が濃厚である。のちの天文10年(1541年)に海野平の戦いで真田氏を追い出した村上義清が小県郡・佐久郡方面の重要拠点とし、改築を行った。 上田盆地にそびえる太郎山山系の東端に位置する砥石城は城そのものは小さいものの、東西を崖に囲まれたその姿はまさしく難攻不落の要塞であり、南に突き出した尾根筋に北から枡形城・本城・砥石城からなる「砥石城」と、その西に位置する米山城からなる複合城郭を形成している。 さらに周囲の尾根にも東側には飯縄城、西には花山城・柏山城などの支城が築かれて大規模な城砦群を構成し、南には虚空蔵山城や伊勢崎城も築かれている。また東を流れる神川の対岸には上州街道が通り、枡形城の下には松代道が通るように、砥石城は交通の要衝を押さえる城でもあった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 砥石城が『高白斎記』などの文献史料に登場するのは天文19年(1550年)頃で、当時信濃平定を目指していた武田晴信(後の信玄)は同年8月に砥石城に7000の兵を差し向けるが堅牢な砥石城を攻略できず、10月に包囲を解いて撤退したところに追撃を受け多数の戦死者を出すという一方的な大敗北を喫した。これを「砥石崩れ」と言う。 しかし当時全盛期であった武田氏を敵に回したのが運の尽き。天文20年(1551年)5月26日に武田二十四将が一人、真田幸隆の調略の前には持ち前の防御力を以ってしても太刀打ちできずにあっさり陥落した。この出来事は『高白斎記』や『勝山記』には「砥石の城真田乗取」と記述されるのみだが、これをきっかけに村上義清は衰退して越後の上杉謙信に救援を要請し、川中島の戦いに発展することとなる。 #br その後の砥石城の詳細は不明だが、天正10年(1582年)に真田昌幸が家臣の湯本三郎左衛門に属する上野の地侍に宛てた安堵状から、砥石城が「伊勢山」と呼ばれ真田氏の拠点となったことがうかがえる。 天正11年(1583年)に昌幸が[[上田城]]を居城としてからはその支城となり、天正13年(1585年)の第一次上田合戦の際には信幸が入って徳川勢を攻撃した。 慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では信幸が徳川方としてこの城に入っている。 その後上田は信幸が領し砥石城は存続したとされるが、元和8年(1622年)に[[松代城]]へ移る際に廃城になったと考えられる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長野県上田市上野| |現存状態|堀、土塁など| |城郭構造|連郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 砥石城(といしじょう)は現在の長野県上田市にあった城である。形式は連郭式山城であり、別名「戸石城」とも言う。『長野県町村誌』によると、城のある山から砥石となる石が産出されることが「砥石」の地名の由来という。 築城年代や築城当時の状況などは定かではないが、真田氏の外城として建てられたのが始まりとする説が濃厚である。のちの天文10年(1541年)に海野平の戦いで真田氏を追い出した村上義清が小県郡・佐久郡方面の重要拠点とし、改築を行った。 上田盆地にそびえる太郎山山系の東端に位置する砥石城は城そのものは小さいものの、東西を崖に囲まれたその姿はまさしく難攻不落の要塞であり、南に突き出した尾根筋に北から枡形城・本城・砥石城からなる「砥石城」と、その西に位置する米山城からなる複合城郭を形成している。 さらに周囲の尾根にも東側には飯縄城、西には花山城・柏山城などの支城が築かれて大規模な城砦群を構成し、南には虚空蔵山城や伊勢崎城も築かれている。また東を流れる神川の対岸には上州街道が通り、枡形城の下には松代道が通るように、砥石城は交通の要衝を押さえる城でもあった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 砥石城が『高白斎記』などの文献史料に登場するのは天文19年(1550年)頃で、当時信濃平定を目指していた武田晴信(後の信玄)は同年8月に砥石城に7000の兵を差し向けるが堅牢な砥石城を攻略できず、10月に包囲を解いて撤退したところに追撃を受け多数の戦死者を出すという一方的な大敗北を喫した。これを「砥石崩れ」と言う。 しかし当時全盛期であった武田氏を敵に回したのが運の尽き。天文20年(1551年)5月26日に武田二十四将が一人、真田幸隆の調略の前には持ち前の防御力を以ってしても太刀打ちできずにあっさり陥落した。この出来事は『高白斎記』や『勝山記』には「砥石の城真田乗取」と記述されるのみだが、これをきっかけに村上義清は衰退して越後の上杉謙信に救援を要請し、川中島の戦いに発展することとなる。 #br その後の砥石城の詳細は不明だが、天正10年(1582年)に真田昌幸が家臣の湯本三郎左衛門に属する上野の地侍に宛てた安堵状から、砥石城が「伊勢山」と呼ばれ真田氏の拠点となったことがうかがえる。 天正11年(1583年)に昌幸が[[上田城]]を居城としてからはその支城となり、天正13年(1585年)の第一次上田合戦の際には信幸が入って徳川勢を攻撃した。 慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では信幸が徳川方としてこの城に入っている。 その後上田は信幸が領し砥石城は存続したとされるが、元和8年(1622年)に[[松代城]]へ移る際に廃城になったと考えられる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長野県上田市上野| |現存状態|堀、土塁など| |城郭構造|連郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)