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> 石神井城
石神井城
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*コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 武蔵の名族・豊島氏の主城。現在の石神井(しゃくじい)公園の南側、三宝寺池から出る流れと石神井川に挟まれた台地上にあった。 豊島(豊嶋)氏は秩父氏(秩父党)から出た一族で、[[河越氏>河越館]]・畠山氏・[[江戸氏>江戸氏館]]・葛西氏と同族にあたる。 平安時代末に豊島郡を領有し、[[平塚城]](豊島城)を中心に大まかに言って現在の東京23区の北側のほとんどが豊島氏の領地であった。 他の秩父党と共に鎌倉幕府御家人として有力武士団武蔵平一揆を形成していたが、足利幕府の時代になると冷遇され、1368年に決起。 しかし反乱方主力が籠もった[[河越館]]は幕府方により陥落。同調した豊島氏の所領は没収されて応永2(1395)年にやっと返還された。 石神井城が築かれたのはこの頃か、もしくはその少し前の鎌倉時代の末頃と考えられている。この時から豊島氏の本拠は石神井城に移った。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 本拠を石神井城に移した後、周囲に支城として[[練馬城]]、志村城、[[赤塚城]]などが築かれ、豊島氏の一族がそれぞれに入った。 所領に変動があったが有力勢力であることは変わりなく、石神井城内に三宝寺や氷川社を勧請してこれら宗教勢力の庇護にも当たった。 この時代は関東管領上杉氏に従ったが、足利成氏が[[古河城]]に拠って古河公方を名乗り、管領家と公方家の間で享徳の乱が起こる。 すると公方方に対抗する防衛線として、太田道真・道灌親子によって[[川越城]]、[[江戸城]]、[[稲付城]]((稲付城については豊島氏の築城説有り))などが築かれる。 江戸城や稲付城は豊島氏の勢力圏にモロに入り込んでおり、必然的に豊島氏は道灌に対して隔意を抱くようになる。 #br 文明8(1476)年に管領上杉家の家臣長尾景春が反乱を起こすと当主・豊島勘解由左衛門尉泰経((泰経は江戸時代の資料に見える名であり実際の名は不明))は景春に同調。石神井城と支城群で挙兵した。 この挙兵で道灌は江戸城と河越城の連絡を断たれることになり、この状況に対して道灌は文明9年4月、小勢で練馬城を襲撃し、即引き上げる。 これを見て石神井城から豊島泰経、練馬城からは泰経の弟・豊島平右衛門尉泰明((泰明は泰経同様実名不明))が出撃、総力を挙げて仇敵道灌に追撃をかけた。 しかしこれは罠であり、道灌は撤退と見せかけて軍勢を反転、江古田原で豊島勢を迎撃する(伏兵を伏せていたともいう)。 激戦となるが、豊島勢は豊島泰明をはじめ赤塚氏など一族衆数十を討ち取られて敗走、石神井城に籠もる事しかできなくなった。 道灌は当然これを追撃し石神井城を攻める。城に籠もった泰経は一度は和を請い道灌もこれを認める。しかしその条件だった城の破却に出る動きがなかったために再び攻撃が開始され、泰経は抵抗を諦め城を捨てて逃亡した。 #br 豊島氏一族は一連の戦いで没落、石神井城は廃城となり、豊島氏によって勧請・建立された氷川社・三宝寺・道場寺などの寺社域となった。 現在は宅地化が進み、一部を除き現存する遺構は少ない。その遺構も保護のため閉鎖されており、毎年10月末前後に数日だけ公開される。 城は台地上にあったが、台地の端に築くのではなく、中ほどに堀を切って郭を連ねる形の連郭式だったとされる。 北は三宝寺池、南は石神井川、東は三宝寺池からの川と石神井川が合流する湿地帯((現在の石神井池は後に堰きとめて作られたもの))で、残る西側に集中して防御設備が作られていた。 その郭のうちの一つから三宝寺池の側に張り出すようにして、多角形の主郭が築かれていた。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|東京都練馬区石神井公園付近| |現存状態|空堀、土塁、物見櫓跡| |城郭構造|連郭式平城| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){照姫伝説(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ ***照姫伝説 豊島泰経には照姫という娘が有り、石神井城落城の際に父の後を追って三宝寺池に身を投げた。道灌は姫を哀れみ、姫を祀った姫塚と城主を祀った殿塚を作って供養した。 また泰経は先祖伝来の金の馬鎧と共に三宝寺池に沈み、塚の傍の樹に登ると池の中にその鎧が見えるという。 #br 大枠は以上だが、これは明治時代の小説『照日松』(著・遅塚麗水)とそれを基にした観光キャンペーンの産物と言われる。(葛城明彦氏の説) この小説を真に受けて、金の馬鎧や姫の遺品を探すために池の底を浚う人が続出したという。 史実においては泰経は石神井城では死んでおらず、翌年平塚城で再び挙兵するも道灌に再び攻められいずこかへと落ちて行った。そのことからもわかるとおりそもそも伝説の域を出ないものであった。 #br 史実かどうかはさて置いて現在、毎年春には石神井公園周辺で「照姫祭り」が開催され、戦国時代を思わせる武者や殿・姫の行列がパレードする。 近隣に住むお祭り好きの殿は、遊びに行って武蔵国の歴史の一端に想いを馳せるのも良いだろう。 余談になるが、この一帯は漫画「ドラえもん」の舞台のモデルになったとも言われている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)