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> 武蔵小倉城
武蔵小倉城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) [[菅谷館]]から都幾川の支流・槻川を遡り嵐山渓谷を西に進んだところ、川が大きく蛇行している内側の山上に築かれた山城。 武蔵の中世城郭では数少ない、石材を大々的に使った石の城として知られる。 使われた石材は周辺や城の建つ山から産出する緑泥片岩で、その特性上石垣ではなく薄い板状石材を積み上げる石塁となっている。 菅谷館、[[武蔵松山城]]、[[杉山城]]と共に国定史跡・比企城館跡群に指定されている。ちなみに読みは「おぐら」と濁る。 最高所に本丸を、三方に延びる尾根に空堀で分けた曲輪群を配置し、更にその間の谷間にも腰曲輪を置くオーソドックスで堅固な梯郭式。 東側山麓にある大福寺(城主夫人の墓がある)の周囲には堀の跡が見られ、ここが平時の居館であったと考えられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 築城年代・築城者は不確定。発掘調査で15世紀末頃の遺物が出土しており、長享4年(1488年)の須賀谷原合戦との関連も検討される。 槻川流域及び松山城方面への視界が開けていることから、これらの地域や槻川の舟運・鎌倉街道を抑えるために築城されたと考えられる。 山城でありながら最高点は周囲の山よりも低く、尾根伝いに南西に向かうと更に100m近く標高の高い物見山などに繋がっている。 これは前述の役割を重視した結果そうなったものであり、そのような弱点となる要素を含んでもなお当地に城を築くことを優先した。 城主としては松山城を領した上田氏のほか、北条家家臣で[[江戸城]]代遠山家の一族遠山右衛門大夫光景が挙げられる。 光景は対岸に父祖の菩提を弔いために遠山寺(えんざんじ)を開基したことが伝わり、彼の名字から取ったと思われる遠山という地名も残る。 最後は小田原征伐のとき松山城の陥落と同時期にこちらも攻め落とされ廃城となったと伝わる。 #br 小倉城の特色である石積み遺構は特に東側を中心に残るほか城の主要部分で見られ、本丸では三方に開いた全虎口に石積みが使われている。 残る石積みは最大の部分では高さ5mに達する大規模なもので、調査によっておそらく城内の大部分に石積みが用いられていたと考えられる。 石積みだけでなく枡形虎口、折れを多用した登城ルート、複雑に組み合わされた竪堀・大堀切や横矢がかり等、多彩で精緻な技巧が凝らされている。 廃城後もこの山は城山と呼ばれ現代まで地名として残った。昭和11年に県史跡に指定され、遺構は地元住民や関係者によって保全されてきた。 平成4年度から村((ときがわ町合併以前の玉川村))による測量・保全活動が開始され、樹木の下刈りや倒木・枯葉の除去が行われた。石積み遺構はこの活動の中で発見された。 大規模な発掘調査が行われた結果、小倉城は武蔵には少ない石積みを多用した城であることが明らかになり、国定史跡登録へと繋がった。 平成22年度からは城跡の大規模な活用施策として保全・整備計画が打ち出され、今後さらに整備・管理が行われる予定である。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|埼玉県比企郡ときがわ町 大字田黒 字城山| |現存状態|曲輪跡、石積み遺構、空堀、土塁| |城郭構造|梯郭式山城|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) [[菅谷館]]から都幾川の支流・槻川を遡り嵐山渓谷を西に進んだところ、川が大きく蛇行している内側の山上に築かれた山城。 武蔵の中世城郭では数少ない、石材を大々的に使った石の城として知られる。 使われた石材は周辺や城の建つ山から産出する緑泥片岩で、その特性上石垣ではなく薄い板状石材を積み上げる石塁となっている。 菅谷館、[[武蔵松山城]]、[[杉山城]]と共に国定史跡・比企城館跡群に指定されている。ちなみに読みは「おぐら」と濁る。 最高所に本丸を、三方に延びる尾根に空堀で分けた曲輪群を配置し、更にその間の谷間にも腰曲輪を置くオーソドックスで堅固な梯郭式。 東側山麓にある大福寺(城主夫人の墓がある)の周囲には堀の跡が見られ、ここが平時の居館であったと考えられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 築城年代・築城者は不確定。発掘調査で15世紀末頃の遺物が出土しており、長享4年(1488年)の須賀谷原合戦との関連も検討される。 槻川流域及び松山城方面への視界が開けていることから、これらの地域や槻川の舟運・鎌倉街道を抑えるために築城されたと考えられる。 山城でありながら最高点は周囲の山よりも低く、尾根伝いに南西に向かうと更に100m近く標高の高い物見山などに繋がっている。 これは前述の役割を重視した結果そうなったものであり、そのような弱点となる要素を含んでもなお当地に城を築くことを優先した。 城主としては松山城を領した上田氏のほか、北条家家臣で[[江戸城]]代遠山家の一族遠山右衛門大夫光景が挙げられる。 光景は対岸に父祖の菩提を弔いために遠山寺(えんざんじ)を開基したことが伝わり、彼の名字から取ったと思われる遠山という地名も残る。 最後は小田原征伐のとき松山城の陥落と同時期にこちらも攻め落とされ廃城となったと伝わる。 #br 小倉城の特色である石積み遺構は特に東側を中心に残るほか城の主要部分で見られ、本丸では三方に開いた全虎口に石積みが使われている。 残る石積みは最大の部分では高さ5mに達する大規模なもので、調査によっておそらく城内の大部分に石積みが用いられていたと考えられる。 石積みだけでなく枡形虎口、折れを多用した登城ルート、複雑に組み合わされた竪堀・大堀切や横矢がかり等、多彩で精緻な技巧が凝らされている。 廃城後もこの山は城山と呼ばれ現代まで地名として残った。昭和11年に県史跡に指定され、遺構は地元住民や関係者によって保全されてきた。 平成4年度から村((ときがわ町合併以前の玉川村))による測量・保全活動が開始され、樹木の下刈りや倒木・枯葉の除去が行われた。石積み遺構はこの活動の中で発見された。 大規模な発掘調査が行われた結果、小倉城は武蔵には少ない石積みを多用した城であることが明らかになり、国定史跡登録へと繋がった。 平成22年度からは城跡の大規模な活用施策として保全・整備計画が打ち出され、今後さらに整備・管理が行われる予定である。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|埼玉県比企郡ときがわ町 大字田黒 字城山| |現存状態|曲輪跡、石積み遺構、空堀、土塁| |城郭構造|梯郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)