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> 根古屋城
根古屋城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 埼玉県所沢市、東京の水がめ山口貯水池(狭山湖)の脇にある城。別名龍谷城・勝楽寺城。 地元の国人で武蔵七党村山党の一族山口氏の城。築城は明徳・応永年間(15世紀初め前後)、山口小太郎高忠による。 山口氏はやや東の山口城を本拠としていたが、武蔵平一揆に参加し[[河越館]]の戦いに参陣し敗北。その後も関東管領上杉憲実に抗うが破れる。 当主山口高治は山口城に火を放ち自刃(討死とも)、遺児小太郎高忠は管領上杉家の家臣大石氏に服属し、のちに代々の山口城を再建した。 しかし山口城は谷間にある単なる館であり防御力も低かったため、柳瀬川沿いに上流に進んだ尾根上に根古屋城を築いて戦時の役割を移した。 当初は龍谷城と呼ばれていたとも言うが、のち近くの集落の名から根古屋城と呼ばれるようになったという。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 高忠から下って5代目の山口主膳正高種のとき北条勢の侵攻に遭って落城、山口氏は北条家に下る。 その後北条家によって改修が行われ、近隣の[[滝の城]]などと共に北条家の連絡路を守る拠点のひとつとなった。 現在は湖に沈んでいるがここには滝山・八王子方面に抜ける街道があり、北条以前の大石氏、ひいては管領上杉氏にとっても連絡路であった。 最後はやはり周囲の城と同じように豊臣秀吉の小田原征伐のときに廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|埼玉県所沢市勝楽寺| |現存状態|郭跡、空堀、土塁| |城郭構造|平山城| #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造}; }}} #style(class=submenu){{{
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 埼玉県所沢市、東京の水がめ山口貯水池(狭山湖)の脇にある城。別名龍谷城・勝楽寺城。 地元の国人で武蔵七党村山党の一族山口氏の城。築城は明徳・応永年間(15世紀初め前後)、山口小太郎高忠による。 山口氏はやや東の山口城を本拠としていたが、武蔵平一揆に参加し[[河越館]]の戦いに参陣し敗北。その後も関東管領上杉憲実に抗うが破れる。 当主山口高治は山口城に火を放ち自刃(討死とも)、遺児小太郎高忠は管領上杉家の家臣大石氏に服属し、のちに代々の山口城を再建した。 しかし山口城は谷間にある単なる館であり防御力も低かったため、柳瀬川沿いに上流に進んだ尾根上に根古屋城を築いて戦時の役割を移した。 当初は龍谷城と呼ばれていたとも言うが、のち近くの集落の名から根古屋城と呼ばれるようになったという。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 高忠から下って5代目の山口主膳正高種のとき北条勢の侵攻に遭って落城、山口氏は北条家に下る。 その後北条家によって改修が行われ、近隣の[[滝の城]]などと共に北条家の連絡路を守る拠点のひとつとなった。 現在は湖に沈んでいるがここには滝山・八王子方面に抜ける街道があり、北条以前の大石氏、ひいては管領上杉氏にとっても連絡路であった。 最後はやはり周囲の城と同じように豊臣秀吉の小田原征伐のときに廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|埼玉県所沢市勝楽寺| |現存状態|郭跡、空堀、土塁| |城郭構造|平山城| #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造}; }}} #style(class=submenu){{{ ***城郭構造 尾根上に本丸と二の丸を南北に縦に繋げて配し、その周囲を空堀と土塁が囲む。内郭を囲む空堀は北条氏時代に鉄砲対策で拡幅されたと言われる。 本丸の東側に東郭、更にその外に外郭があり、東郭の下部に南馬出郭、本丸の北側に北馬出郭と腰郭を持つ。 南側に更に構造物が有ったかもしれないが、水没しており調査もされていないため不明。 現在城跡は貯水池の保全管理区域として封鎖されており基本的に立ち入り不可。そのため逆に城跡の遺構は良好に保たれているという。 昭和50年代に調査が入って以来一般人の立ち入りが許可された例はなかったが、近年地元の史家の方が特別に許可を得て入り、その様子をご自身のブログでレポートされている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)