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> 延沢城
延沢城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 出羽の国人連合である「最上八楯」の一つ、延沢氏(野辺沢氏)の本拠で、野辺沢城や霧山城とも呼ばれる。延沢の地は南に山形に通じる背炙峠越えの道、西には最上川河岸、川前・駒籠と北の新庄から秋田仙北へと通じる道、東には陸奥への軽井沢越えの道と、東西南北の道が交差する交通の要衝だった。 延沢氏は小田嶋荘地頭という小田嶋長義の末裔を自称し、天文24年(1555年)の『讒拾集』によると奥羽の国人に宛てる書状書札例で延沢氏は殿称とされ、殿をあてられない鮭延氏や細川小国氏よりも格式が高い出羽の有力国人として勢力を広げた。 延沢氏のうち事跡が明らかとなっているのは満重・満延・光昌の三代で、延沢城は満重が天文16年(1547年)に築いたとされる。能登守満延は鮭延越前守秀綱が生前に語った「鮭延越前守聞書」において、「能登守は二十人力の大力で出羽奥州では隠れなく」と称される豪勇の武将だったという。 延沢氏はこの満延の代で大きく勢力を拡大し、[[天童城]]の天童氏を盟主とする最上八楯の有力者として[[山形城]]の最上義光と戦った。しかし天正12年(1584年)に義光は娘の松尾姫を満延の子の又五郎(後の光昌)に嫁がせ、満延は最上八楯を離反して義光方についた。延沢氏の離脱もあって天童氏は没落し、以後の満延は義光の重臣として尾花沢・大石田地方に約3万石を領した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 江戸時代に書かれた『野辺沢城記』には、満延は「天正19年、義光在京のとき京都において病死」とあり、義光に従っての上洛時に死去し、現在残る延沢城の大部分は光昌の代で完成した。 元和8年(1622年)に最上騒動によって最上氏が改易されると延沢氏は肥後熊本に移り、山形には鳥居氏が入った。延沢城は[[仙台城]]の伊達領との境に位置したことから、伊達氏への備えとして東根城とともに存続が認められた。 しかし城主が置かれない番城となった延沢城はほとんど手入れが行われず、寛永13年(1636年)の鳥居氏から保科氏への城受取り記録である『実世実紀』には、「畳敷き書院のある本丸屋形は損じ、雨の漏らない座敷は一つもなかった。また、二の丸の四軒の建物も敷物はなく住めなかった」と記され、延沢城が荒れ果てていたことを物語っている。 その後、『野辺沢城記』によると、延沢城は寛文7年(1667年)に東根城とともに破却され、城門は龍護寺、知教寺、樹泉寺、浄願寺に移築されたという。 #br 延沢城は奥羽山脈が尾花沢盆地に突き出た古城山に築かれ、七曲りの城道の先に連続枡形虎口が構えられ、さらにもう一つの枡形虎口を抜けた先の山頂部に本丸が置かれた。 本丸は東西約110メートル、南北約85メートルの直線的な曲輪で、北側には急傾斜の切岸を持つ三つの大規模な曲輪が階段状に連なり、東側にも二つの曲輪があった。L字型に並ぶこれらの曲輪群が二の丸であり、本丸とともに延沢城の中心部となっている。 その北側は尾根続きで、二つの堀切で遮断され、内側の堀切は幅約16メートル、深さ約10メートルと大規模なものだった。西側の山裾には三の丸が置かれ、大手道の両側には低い段を持つ大規模な曲輪群があり、家臣の屋敷があった。 本丸では発掘調査が行われ、17世紀前半の遺物が多いことや、連続枡形虎口は慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦後から確認できることから、延沢城は慶長出羽合戦後に完成したと考えられる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|山形県尾花沢市| |現存状態|堀、土塁など| |城郭構造|連郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 出羽の国人連合である「最上八楯」の一つ、延沢氏(野辺沢氏)の本拠で、野辺沢城や霧山城とも呼ばれる。延沢の地は南に山形に通じる背炙峠越えの道、西には最上川河岸、川前・駒籠と北の新庄から秋田仙北へと通じる道、東には陸奥への軽井沢越えの道と、東西南北の道が交差する交通の要衝だった。 延沢氏は小田嶋荘地頭という小田嶋長義の末裔を自称し、天文24年(1555年)の『讒拾集』によると奥羽の国人に宛てる書状書札例で延沢氏は殿称とされ、殿をあてられない鮭延氏や細川小国氏よりも格式が高い出羽の有力国人として勢力を広げた。 延沢氏のうち事跡が明らかとなっているのは満重・満延・光昌の三代で、延沢城は満重が天文16年(1547年)に築いたとされる。能登守満延は鮭延越前守秀綱が生前に語った「鮭延越前守聞書」において、「能登守は二十人力の大力で出羽奥州では隠れなく」と称される豪勇の武将だったという。 延沢氏はこの満延の代で大きく勢力を拡大し、[[天童城]]の天童氏を盟主とする最上八楯の有力者として[[山形城]]の最上義光と戦った。しかし天正12年(1584年)に義光は娘の松尾姫を満延の子の又五郎(後の光昌)に嫁がせ、満延は最上八楯を離反して義光方についた。延沢氏の離脱もあって天童氏は没落し、以後の満延は義光の重臣として尾花沢・大石田地方に約3万石を領した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 江戸時代に書かれた『野辺沢城記』には、満延は「天正19年、義光在京のとき京都において病死」とあり、義光に従っての上洛時に死去し、現在残る延沢城の大部分は光昌の代で完成した。 元和8年(1622年)に最上騒動によって最上氏が改易されると延沢氏は肥後熊本に移り、山形には鳥居氏が入った。延沢城は[[仙台城]]の伊達領との境に位置したことから、伊達氏への備えとして東根城とともに存続が認められた。 しかし城主が置かれない番城となった延沢城はほとんど手入れが行われず、寛永13年(1636年)の鳥居氏から保科氏への城受取り記録である『実世実紀』には、「畳敷き書院のある本丸屋形は損じ、雨の漏らない座敷は一つもなかった。また、二の丸の四軒の建物も敷物はなく住めなかった」と記され、延沢城が荒れ果てていたことを物語っている。 その後、『野辺沢城記』によると、延沢城は寛文7年(1667年)に東根城とともに破却され、城門は龍護寺、知教寺、樹泉寺、浄願寺に移築されたという。 #br 延沢城は奥羽山脈が尾花沢盆地に突き出た古城山に築かれ、七曲りの城道の先に連続枡形虎口が構えられ、さらにもう一つの枡形虎口を抜けた先の山頂部に本丸が置かれた。 本丸は東西約110メートル、南北約85メートルの直線的な曲輪で、北側には急傾斜の切岸を持つ三つの大規模な曲輪が階段状に連なり、東側にも二つの曲輪があった。L字型に並ぶこれらの曲輪群が二の丸であり、本丸とともに延沢城の中心部となっている。 その北側は尾根続きで、二つの堀切で遮断され、内側の堀切は幅約16メートル、深さ約10メートルと大規模なものだった。西側の山裾には三の丸が置かれ、大手道の両側には低い段を持つ大規模な曲輪群があり、家臣の屋敷があった。 本丸では発掘調査が行われ、17世紀前半の遺物が多いことや、連続枡形虎口は慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦後から確認できることから、延沢城は慶長出羽合戦後に完成したと考えられる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|山形県尾花沢市| |現存状態|堀、土塁など| |城郭構造|連郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)