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> 大鳥井山
大鳥井山
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 大鳥井山遺跡、あるいは大鳥井柵跡とも。旧説では早くても14世紀頃の完成とされていたが、発掘調査で出土した土器などから10世紀後半から11世紀後半までに用いられたことが判明した。 従来は元弘2年/正慶元年(1332年)に楠木正成が築いた[[千早城]]などが初期の山城とされていたが、200年以上のときを遡ることとなった。 『陸奥話記』では豪族である清原光頼・頼遠父子の拠点であると伝えられており、永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)に行なわれた後三年の役で源義家と戦った清原氏が拠点とした山城とも考えられる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 奈良大学の千田嘉博氏によれば、畝状空堀群と思われる3本の竪堀は15、6世紀に出現したとされてきた構造であり、土でつくる城の最高レベルと評している。 南北680メートル、東西200メートルに広がる遺跡は、川に面していない三方向は二重に巡る土塁と堀で囲まれ、堀は最大のもので幅10メートル、深さ3メートルに達し、大型の建物跡も確認された。 これは源平合戦の戦争の姿すら見直しが迫られるものとされ、平成22年(2010年)2月に国指定史跡となった。横手市ではこれを契機に源義家と清原氏をテーマにした「後三年合戦シンポジウム」を毎年開催している。 平成29年(2017年)6月16日、文化審議会は大鳥井より北に5キロメートル離れた「陣館遺跡」を追加指定し、「大鳥井山遺跡附陣館遺跡」と名称変更するよう松野博一文部科学相に答申した。 現在、光頼・頼遠父子の居館跡とされる地には、大鳥井山神社が鎮座している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|秋田県横手市新坂町3−1| |現存状態|堀、土塁| |城郭構造|山城|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 大鳥井山遺跡、あるいは大鳥井柵跡とも。旧説では早くても14世紀頃の完成とされていたが、発掘調査で出土した土器などから10世紀後半から11世紀後半までに用いられたことが判明した。 従来は元弘2年/正慶元年(1332年)に楠木正成が築いた[[千早城]]などが初期の山城とされていたが、200年以上のときを遡ることとなった。 『陸奥話記』では豪族である清原光頼・頼遠父子の拠点であると伝えられており、永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)に行なわれた後三年の役で源義家と戦った清原氏が拠点とした山城とも考えられる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 奈良大学の千田嘉博氏によれば、畝状空堀群と思われる3本の竪堀は15、6世紀に出現したとされてきた構造であり、土でつくる城の最高レベルと評している。 南北680メートル、東西200メートルに広がる遺跡は、川に面していない三方向は二重に巡る土塁と堀で囲まれ、堀は最大のもので幅10メートル、深さ3メートルに達し、大型の建物跡も確認された。 これは源平合戦の戦争の姿すら見直しが迫られるものとされ、平成22年(2010年)2月に国指定史跡となった。横手市ではこれを契機に源義家と清原氏をテーマにした「後三年合戦シンポジウム」を毎年開催している。 平成29年(2017年)6月16日、文化審議会は大鳥井より北に5キロメートル離れた「陣館遺跡」を追加指定し、「大鳥井山遺跡附陣館遺跡」と名称変更するよう松野博一文部科学相に答申した。 現在、光頼・頼遠父子の居館跡とされる地には、大鳥井山神社が鎮座している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|秋田県横手市新坂町3−1| |現存状態|堀、土塁| |城郭構造|山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)