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> 大島城
大島城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 武田信玄が上伊那の拠点である[[高遠城]]と下伊那の拠点である飯田城の連絡・監視を目的として重視した、伊那郡の拠点城郭。 伊那谷の中央部に位置する大島城は天竜川の右岸に築かれ、天竜川に面した段丘の南端が半島状に突出していることが「大島」の地名の由来となっている。また武田氏時代の大島城は「大城(だいじょう)」とも呼ばれ、これが「台城」と呼ばれるようになり、地元ではこちらの名称もよく用いられる。 城の北・東・南の三方は天竜川を臨む段丘崖であり、その断崖絶壁下には「大蛇ヶ城」伝説の由来となった大蛇ヶ淵がある、まさに天然の要害だった。 しかし残る西側は城外よりも城内の方が低いという弱点となっており、そのため武田氏は前面に巨大な丸馬出を構えて二重の三日月堀を巡らし、防御を固めていた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 大島城は元々は在地領主であった大島氏の所領の南端に位置する小さな城だったが、天文23年(1554年)に下伊那を制圧した武田信玄が伊那郡統治の拠点とするために大島氏から接収し、最初の普請を行った。 大島氏時代は本丸のみの城だったが、武田氏は二の丸が増築してその前面には丸馬出が設け、城将として日向大和守が置かれた。 #br 元亀2年(1571年)3月17日には西上作戦に先立って伊那郡代の秋山虎繁(信友)が大島城の普請を命じられている。この時に普請役を定めた朱印状が「武田信玄下知状」で、陣馬奉行だった原昌胤が虎繁に宛てて「下伊那十九の郷民と知久・今田の二衆に大島城の普請役を命じる」と記している。 この時の普請では三の丸が増築され、上述の巨大な丸馬出・二重の三日月堀もこの普請で設けられたものであり、今日見られる大島城の縄張が出来上がった。 こうして大島城は信玄による三河侵攻・西上作戦の拠点となり、また同時に織田信長・徳川家康に対する防衛拠点にも位置づけられた。 #br 天正10年(1582年)2月に始まった信長による甲州征伐の際、大島城には日向玄徳斎が城将として在城し、信玄の弟である武田逍遥軒信綱(信廉)や小原丹後守、安中七郎らが加勢していた。しかし2月17日に織田信忠が大島城に攻め寄せた際、大島城兵は下伊那の飯田城が落城したことを聞いて逃亡したため空城となっており、戦わずに自落したことが『信長公記』に記されている。 信忠は数日間大島城に在城したのち、河尻秀隆や毛利秀頼を置いて飯島方面へと進み、3月になって信濃に入った信長が大島城周辺での乱暴狼藉を禁じた禁制を発給し、城の西側に「大島町」と呼ばれる町屋が形成された。 3月末には信長によって伊那郡を与えられた秀頼が大島城に入城したが、6月2日に起こった[[本能寺の変>本能寺]]に際して秀頼は兵を率いて京へと向かい、その後大島城に戻ることはなく廃城となった。 #br このように大島城は普請や廃城の時期・経緯が文献史料で明らかとなっており、また元亀2年(1571年)の普請から天正10年(1582年)の廃城までの期間が11年と短いことから、伊那地域における戦国時代末期の拠点城郭の姿をほぼそのままの状態で今日に伝える貴重な城郭となっている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|長野県下伊那郡松川町元大島、古町| |現存状態|馬出、土塁、堀など| |城郭構造|連郭式平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)