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> 備前砥石城
備前砥石城
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*コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) //編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上) //本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。 //(本文を5行以下で入力してください。折り畳みを開始するのは、キリのいいところで結構です) 備前砥石城は、中世の備前の中心地である福岡、西大寺地域を見据える100m程度の山に建てられた山城である。 諸説あるが、主には文明年間に浦上氏により築城されたか、または大永年間に宇喜多能家により築城されたとされている。 幅200m程の谷を挟み、五連郭の本城と四郭の出城で構成された一城別郭の城で、さらに尾根伝いに1km程行くと同じく浦上氏の拠点である高取山城に行きつく。 備前砥石城は、浦上氏の重臣である宇喜多氏の居城でもあり、後の宇喜多直家もここで生誕したとされ、麓には現在「宇喜多直家生誕之地」の石碑が置かれている。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ 備前砥石城に浦上氏重臣の宇喜多能家が置かれていたのと同様に、尾根伝いにある高取山城にも同じく重臣の島村盛実が置かれていた。 隣り合う城の番を任されていた二人であるが、二人の仲は浦上家中で険悪だったことで知られている。 そうして天文3年(享禄4年とも)、とうとう盛実が主君へ讒言し、備前砥石城に夜襲を仕掛け、能家を自刃に追い込み落城させた。 この時に能家の息子の興家と当時3歳(または6歳)だった直家は何とか脱出することができ、漁師を頼って備後の鞆の浦へと落ち延び、以降、直家は成人まで放浪の人生を歩んだ。 落城後の備前砥石城は島村盛実ではなく能家の異母弟の浮田国定が城主となり、能家がいなくなった浦上家中では盛実が大きく権勢をふるうようになった。 #br その後浦上家は、備前に侵攻してきた尼子晴久への対応を巡り、兄の政宗と弟の宗景とで大きく分裂していった。 備前砥石城に置かれていた浮田国定は政宗派であったが、そこに宗景の家臣として成人した直家が復帰してきた。 備前砥石城は浦上家の重要拠点であるため、ここを奪うために宗景は直家に攻略を命じ、直家はそれに従い幾度かの抗争を経て弘治2年に備前砥石城を落城させた。 しかし、直家は備前砥石城には入れられず、代わりに新庄山城を与えられ、それまでの居城の乙子城から移ったという。 落城した備前砥石城は、一説によれば島村盛実に預けられたという。 #br その後も直家は、その権謀術数の限りを尽くし、浦上家の重臣へとのし上がっていった。 そうして永禄2年、とうとう直家は盛実を祖父の時とは逆に讒言で嵌めて暗殺し、祖父の仇を討った。 こうして備前砥石城は再び宇喜多の城となって宇喜多春家(宇喜多忠家と同一人物とも)が入城し、これ以降は歴史の表舞台から姿を消した。 }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|岡山県瀬戸内市邑久町豊原| |現存状態|土塁、石垣(再建)| |城郭構造|連郭式山城| //#br //題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。 //初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。 //#style(class=submenuheader){{ //&color(White,Maroon){(題名を入力してください)(クリックで表示)}; //}} //#style(class=submenu){{ //Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。 //***(題名を入力してください) //(本文を入力してください) //#br //}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)