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> リメス
リメス
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) リメスはドイツ中部から南部にかけて伸びる、古代ローマ帝国の防塁。ローマの建築した国境の長城防塁すべてが「リメス」である((例えばハドリアヌスの長城は「リメス・ブリタンニクス」))が、ここではドイツに現存するものを扱う。 [[ハドリアヌスの長城]]やアントニヌスの長城などもリメスの一種であり、「ローマ帝国の国境線」としてともに世界遺産に登録されている。 紀元80年代半ば、ドミティアヌス帝の治世から建設が開始され、ハドリアヌス帝の治世の頃までおよそ40年をかけて、ローマ属州ゲルマニア・スペリオル州とラエティア州の国境線に、東はライン川から西はドナウ川まで総延長550キロメートルに及ぶ「リメス・ゲルマニクス」が建設され、その後もアントニウス・ピウス帝の時代まで改良が続けられた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 基本的な構造は土塁とその前面の堀、また土塁の後ろには兵が素早く移動するための軍道が設けられていた。 ラエティア州では石材を産出したため石積みになっており、堀は広いところでは幅8メートル、深さ2.5メートルにも及ぶ大規模なものだった。 土塁・石塁上には一定の間隔で見張り台(物見櫓)が設置され、更に数キロメートル~数十キロメートルおきに砦が設けられていた。 砦には100人から1000人程度の守備隊が常駐していたと考えられている。 #br 最初に建設されたのはマイン川南岸の現在のヴェルト・アム・マイン付近から南下し、ネッカー川沿いのバート・ヴィンプフェン付近に達する防塁で、これを「オーデンヴァルト・リメス」と呼ぶ。 更にマイン川の北岸ハーナウ付近から北上してマイン川に平行するようにライン川まで到達する「ゲルマニア・スペリオル・リメス」、ネッカー川を遡上したシュツットガルトから東に伸びてカストロ・レギーナ(現レーゲンスブルク)の上流でドナウ川に到達する「レティシャー・リメス」が作られた。 のちにオーデンヴァルト・リメスは更に東に進出したミッテンブルクから南下、ロルヒでレティシャー・リメスに合流するように改築された。 #br ローマ帝国が衰退するとリメスは忘れられた存在になるが、19世紀に「再発見」され、ドイツ帝国の下で研究プロジェクトが始まった。 ドイツ帝国が崩壊した後もワイマール共和国・第三帝国期を通じてこのプロジェクトは続行され、リメスの位置や様式が詳細に調査・記録された。 ドイツが東西に分断されたのちも、そして再統一後も、このプロジェクトは現在に至るまでなお続けられている。 ハドリアヌスの長城が1987年に世界遺産に認定されると、同じローマ帝国の国境線であるリメスも世界遺産とする運動がおこり、2005年にドイツのリメスも拡大登録された。 時間経過と開発によって1割弱が完全に消失しているものの、3割近くの場所で往時の姿を留めている。 #br 前述したようにローマ帝国の国境防塁はすべて「リメス」である。 同様のリメスはモエシア、ダキア、シリア、アラビア・ペトラエア、そして北アフリカのマウレタニアの各属州にも作られた。&color(Silver){つまり姉妹がたくさんいる。}; }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|ドイツ、ヘッセン州、バーデン=ヴュルテンベルク州、バイエルン州| |現存状態|土塁、城砦、櫓跡| |城郭構造|防塁|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) リメスはドイツ中部から南部にかけて伸びる、古代ローマ帝国の防塁。ローマの建築した国境の長城防塁すべてが「リメス」である((例えばハドリアヌスの長城は「リメス・ブリタンニクス」))が、ここではドイツに現存するものを扱う。 [[ハドリアヌスの長城]]やアントニヌスの長城などもリメスの一種であり、「ローマ帝国の国境線」としてともに世界遺産に登録されている。 紀元80年代半ば、ドミティアヌス帝の治世から建設が開始され、ハドリアヌス帝の治世の頃までおよそ40年をかけて、ローマ属州ゲルマニア・スペリオル州とラエティア州の国境線に、東はライン川から西はドナウ川まで総延長550キロメートルに及ぶ「リメス・ゲルマニクス」が建設され、その後もアントニウス・ピウス帝の時代まで改良が続けられた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 基本的な構造は土塁とその前面の堀、また土塁の後ろには兵が素早く移動するための軍道が設けられていた。 ラエティア州では石材を産出したため石積みになっており、堀は広いところでは幅8メートル、深さ2.5メートルにも及ぶ大規模なものだった。 土塁・石塁上には一定の間隔で見張り台(物見櫓)が設置され、更に数キロメートル~数十キロメートルおきに砦が設けられていた。 砦には100人から1000人程度の守備隊が常駐していたと考えられている。 #br 最初に建設されたのはマイン川南岸の現在のヴェルト・アム・マイン付近から南下し、ネッカー川沿いのバート・ヴィンプフェン付近に達する防塁で、これを「オーデンヴァルト・リメス」と呼ぶ。 更にマイン川の北岸ハーナウ付近から北上してマイン川に平行するようにライン川まで到達する「ゲルマニア・スペリオル・リメス」、ネッカー川を遡上したシュツットガルトから東に伸びてカストロ・レギーナ(現レーゲンスブルク)の上流でドナウ川に到達する「レティシャー・リメス」が作られた。 のちにオーデンヴァルト・リメスは更に東に進出したミッテンブルクから南下、ロルヒでレティシャー・リメスに合流するように改築された。 #br ローマ帝国が衰退するとリメスは忘れられた存在になるが、19世紀に「再発見」され、ドイツ帝国の下で研究プロジェクトが始まった。 ドイツ帝国が崩壊した後もワイマール共和国・第三帝国期を通じてこのプロジェクトは続行され、リメスの位置や様式が詳細に調査・記録された。 ドイツが東西に分断されたのちも、そして再統一後も、このプロジェクトは現在に至るまでなお続けられている。 ハドリアヌスの長城が1987年に世界遺産に認定されると、同じローマ帝国の国境線であるリメスも世界遺産とする運動がおこり、2005年にドイツのリメスも拡大登録された。 時間経過と開発によって1割弱が完全に消失しているものの、3割近くの場所で往時の姿を留めている。 #br 前述したようにローマ帝国の国境防塁はすべて「リメス」である。 同様のリメスはモエシア、ダキア、シリア、アラビア・ペトラエア、そして北アフリカのマウレタニアの各属州にも作られた。&color(Silver){つまり姉妹がたくさんいる。}; }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|ドイツ、ヘッセン州、バーデン=ヴュルテンベルク州、バイエルン州| |現存状態|土塁、城砦、櫓跡| |城郭構造|防塁| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)