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> ダマスカス
ダマスカス
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 古来よりメソポタミア、エジプト、小アジアの中間に位置する東地中海世界の要衝として栄えた、現存する世界最古の都市の一つ。 ダマスカスはシリア地方、現在の国名でのシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエルを合わせた領域のほぼ中央部に位置し、紀元前10世紀頃にはアラム人が首都として内陸交易の拠点とし、1世紀頃にローマ帝国によって最初の城壁が築かれたとされる。 ダマスカスが大きく発展したのはウマイヤ朝時代で、その創始者ムアーウィヤは現在の旧市街の南東部に「緑の宮殿」を建設して政務の中心とした。 ワリード1世時代の715年には聖ヨハネ教会を大改修し、世界最古かつ世界最大級のモスクであるウマイヤド・モスクが建設された。壁面に描かれる庭園のモザイクは、コーランに描かれた天国の楽園をイメージしたものとされる。 城壁に囲まれた街並みの近くにはバラダ川が流れて緑豊かなグータの森をつくり、果樹園が造られた。アラブの地理学者ムカッダスィーはダマスカスをシリアの主邑として宮殿や城砦、市場、果樹園を称賛し、アンダルスの旅行家イブン・ジュバイルはダマスカスを「町々のなかの花嫁」と表現した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ダマスカスはセルジューク朝第2代スルタンのアルプ・アルスラーンの子でシリア・セルジューク朝を開いたトゥトゥシュによってさらなる城砦や城壁が建設され、その子ドゥカークの治世でも継続された。 やがてシリアには西欧から十字軍が侵攻しダマスカスも攻撃されたが、ブーリー朝のムイーヌッディーンがこれを撃退した。この時、ダマスカスの周囲には果樹園が広がっており、十字軍兵士の接近を阻むなど防衛に大きく役立ったという。 その後シリアではザンギー朝が十字軍に対抗するため統一政権の樹立を進め、1154年にはヌールッディーンがダマスカスを征服し首都に定めた。 ヌールッディーンはダマスカスの城砦や城壁の強化を進めたが1174年に死去し、これに乗じてザンギー朝に代わりシリアを支配したアイユーブ朝のサラーフ・アッディーン(サラディン)は、首都[[カイロ>城塞都市カイロ]]とともにダマスカスを重要都市に位置づけ、城砦を増築した。 サラディンもまたダマスカスで死去し、アイユーブ朝はカイロ政権やシリア政権などに分裂した。このうちシリア政権を掌握したアル・アーディルはダマスカスの古い城砦・城壁の大規模な改修に着手し、トレビュシェット(投石機)などの攻城兵器に対応できるよう、城壁をより高く分厚くし、城砦の周囲には堀を設け、城塔を短い間隔で配置するなどの強化が行われた。 #br アイユーブ朝が衰退するとシリアにはモンゴル帝国が侵攻し、1260年にダマスカスは降伏しモンゴルによって城砦・城壁の大部分が破壊された。 これらはモンゴルを撃退したマムルーク朝のバイバルスによって再建されたが、マムルーク朝が分裂し始めた14世紀半ばに東地中海世界でペストが大流行し、内陸のダマスカスでも猛威を振るった。 これによりマムルーク朝では主要な通商路だったカイロ・ダマスカス間の交易が衰え、さらに1401年には中央アジアから侵攻してきたティムールによってダマスカスが占領された。ダマスカスはティムールによりウマイヤド・モスクが焼かれ、その他のモスクや民家、市場なども焼かれて市街地は廃墟となり、さらに学者・文人・芸術家・建築家・職人などが[[サマルカンド]]へ強制連行され、ダマスカスの繁栄は完全に失われた。 それでもダマスカスは再建され、かつてのイスラーム世界の中心地という地位ではなかったものの、地方の重要都市として位置づけられた。 1979年には「古代都市ダマスカス」として世界遺産に登録されたが、2011年に始まり現在でも続いているシリア騒乱により、2013年に危機遺産に登録された。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|270|c |所在地|シリア、ダマスカス県ダマスカス| |現存状態|城壁、城塔など| |城郭構造|城塞都市|
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 古来よりメソポタミア、エジプト、小アジアの中間に位置する東地中海世界の要衝として栄えた、現存する世界最古の都市の一つ。 ダマスカスはシリア地方、現在の国名でのシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエルを合わせた領域のほぼ中央部に位置し、紀元前10世紀頃にはアラム人が首都として内陸交易の拠点とし、1世紀頃にローマ帝国によって最初の城壁が築かれたとされる。 ダマスカスが大きく発展したのはウマイヤ朝時代で、その創始者ムアーウィヤは現在の旧市街の南東部に「緑の宮殿」を建設して政務の中心とした。 ワリード1世時代の715年には聖ヨハネ教会を大改修し、世界最古かつ世界最大級のモスクであるウマイヤド・モスクが建設された。壁面に描かれる庭園のモザイクは、コーランに描かれた天国の楽園をイメージしたものとされる。 城壁に囲まれた街並みの近くにはバラダ川が流れて緑豊かなグータの森をつくり、果樹園が造られた。アラブの地理学者ムカッダスィーはダマスカスをシリアの主邑として宮殿や城砦、市場、果樹園を称賛し、アンダルスの旅行家イブン・ジュバイルはダマスカスを「町々のなかの花嫁」と表現した。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ダマスカスはセルジューク朝第2代スルタンのアルプ・アルスラーンの子でシリア・セルジューク朝を開いたトゥトゥシュによってさらなる城砦や城壁が建設され、その子ドゥカークの治世でも継続された。 やがてシリアには西欧から十字軍が侵攻しダマスカスも攻撃されたが、ブーリー朝のムイーヌッディーンがこれを撃退した。この時、ダマスカスの周囲には果樹園が広がっており、十字軍兵士の接近を阻むなど防衛に大きく役立ったという。 その後シリアではザンギー朝が十字軍に対抗するため統一政権の樹立を進め、1154年にはヌールッディーンがダマスカスを征服し首都に定めた。 ヌールッディーンはダマスカスの城砦や城壁の強化を進めたが1174年に死去し、これに乗じてザンギー朝に代わりシリアを支配したアイユーブ朝のサラーフ・アッディーン(サラディン)は、首都[[カイロ>城塞都市カイロ]]とともにダマスカスを重要都市に位置づけ、城砦を増築した。 サラディンもまたダマスカスで死去し、アイユーブ朝はカイロ政権やシリア政権などに分裂した。このうちシリア政権を掌握したアル・アーディルはダマスカスの古い城砦・城壁の大規模な改修に着手し、トレビュシェット(投石機)などの攻城兵器に対応できるよう、城壁をより高く分厚くし、城砦の周囲には堀を設け、城塔を短い間隔で配置するなどの強化が行われた。 #br アイユーブ朝が衰退するとシリアにはモンゴル帝国が侵攻し、1260年にダマスカスは降伏しモンゴルによって城砦・城壁の大部分が破壊された。 これらはモンゴルを撃退したマムルーク朝のバイバルスによって再建されたが、マムルーク朝が分裂し始めた14世紀半ばに東地中海世界でペストが大流行し、内陸のダマスカスでも猛威を振るった。 これによりマムルーク朝では主要な通商路だったカイロ・ダマスカス間の交易が衰え、さらに1401年には中央アジアから侵攻してきたティムールによってダマスカスが占領された。ダマスカスはティムールによりウマイヤド・モスクが焼かれ、その他のモスクや民家、市場なども焼かれて市街地は廃墟となり、さらに学者・文人・芸術家・建築家・職人などが[[サマルカンド]]へ強制連行され、ダマスカスの繁栄は完全に失われた。 それでもダマスカスは再建され、かつてのイスラーム世界の中心地という地位ではなかったものの、地方の重要都市として位置づけられた。 1979年には「古代都市ダマスカス」として世界遺産に登録されたが、2011年に始まり現在でも続いているシリア騒乱により、2013年に危機遺産に登録された。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|270|c |所在地|シリア、ダマスカス県ダマスカス| |現存状態|城壁、城塔など| |城郭構造|城塞都市| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)