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スカーバラ城
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*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 名曲『スカボロー・フェア』で有名なイングランド北東部にある街スカーバラの東側、北海に突き出した切り立った岬の上に建つ城。 三方を海に囲まれた高さ300フィート(約90メートル)の岩山という天然の要害であり、紀元前から利用されてきた。3600年以上前から使われていたとする説もある。 12世紀半ばにイングランド王家の城となり、中近世を通じて王家の有数の城のひとつとして歴史の舞台を彩った。 現在もなおイギリス王室が所有しており、イングリッシュ・ヘリテイジが管理を委託されている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 明確な範囲では紀元前5~8世紀にまで遡ってヒルフォート((要害に土塁などをめぐらせて防衛した集落や放牧地))として使われていたと判明している。 ローマ時代には付近の海岸線の監視と防衛のための烽火台として用いられていた。 石造の基礎の上に木造の見張り台が築かれていたほか、陸側に堀と城門を設けており、事実上の城だった。この砦はローマ衰退後も利用されていた。 ヴァイキング時代にはスカーシという将がここに本拠を置いた。このスカーシのバラ(=城)が転じてスカーバラとなった。 現在に残る遺構の中で年代がはっきりしている最古のものは、西暦1000年前後に建てられたと思われる教会堂である。この教会堂はノルウェー王ハーラル3世の軍に一度破壊されのちに再建された。 無政府時代と呼ばれる内乱の続く1138年に、オマール伯((ノルマンディの貴族で、フランス王フィリップ2世によってオマール領が併合されたためにイングランドに亡命していた))ウィリアム・ル・グロスがスティーブン王からこの地を下賜され城と城下町を築いた。このときの城は木造のモットアンドベイリー式の城であった。 1154年スティーブンから王位を継ぎプランタジネット朝を開いたヘンリー2世はオマール伯に城の引渡しを命じ、伯は反発するが城は破壊される。 その後1157年から1169年にかけてヘンリーの手によって改めて石造の新しい城が建設される。現在残るキープはこのときのものである。 獅子心王リチャード1世を挟んでその次代のジョン王、ヘンリー3世、エドワード1世も続けて城の強化に予算を投じている。 #br しかしその次のエドワード2世はそんな重要な城をあっさりと寵臣ピアーズ・ギャヴィストンに下賜してしまった。 ギャヴィストンへの寵愛は他にも問題を山のように引き起こしており、他の諸侯の反感を買ってついには二人を対象にした反乱に発展する。 1312年、[[ウィンザー城]]にいた二人を反対派が襲う。二人はウィンザーを脱出して比較的国王派・穏健派だった諸侯のもとを転々とするが、最後に追い詰められたのがギャヴィストンの持ち城、ここスカーバラ城だった。 王とギャヴィストンは5月から6月にかけて三週間にわたってわずかな手勢とともに籠城するが結局降伏し投降する。 王の懇願によってギャヴィストンは助命されフランスへ永久追放となった。―が、その途上で助命に納得しない反ギャヴィストン派のウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムらが護送列を襲撃して拉致、自領[[ウォリック城]]で私刑にかけて処刑してしまった。 #br イングランド内戦中にはスカーバラは有数の激戦区となる。町の支配権は7回変わり、城も1645年と1648年の2回に渡って攻め落とされる。 両軍ともスカーバラの港を補給拠点に使いたかったためで、特に1645年の攻防戦は内戦中最も熾烈な攻城戦のひとつに数えられるほど激しかった。 攻める議会派側は城に隣接する聖メアリ教会に砲を据えつけて城を砲撃した。砲撃でキープとその前にあった城壁が半壊するほどの手ひどい打撃を受けるが、籠城した王党派は弾薬と食料が底をつくまでの5ヶ月間城を明け渡さなかった。そして内戦が終わったとき、城も町も大部分は廃墟と化していた。 その後はスカーバラは温泉保養地として活気を取り戻し、城は王政復古ののち王家の手に戻る。城は主に牢獄や兵舎として使われた。 第一次大戦中の1914年12月にはドイツ帝国海軍の巡洋戦艦『デアフリンガー』『フォン・デア・タン』による艦砲射撃を受ける。 城と市街地に500発以上の砲弾が撃ち込まれ、17人の死者と80人以上の重軽傷者を出している。城の損傷は1920年代に補修されたが、砲撃で損壊した兵舎については再建されなかった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|イングランド、ヨークシャー、スカーバラ| |現存状態|城壁、主城塔、城門| |城郭構造|囲郭式城郭| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 名曲『スカボロー・フェア』で有名なイングランド北東部にある街スカーバラの東側、北海に突き出した切り立った岬の上に建つ城。 三方を海に囲まれた高さ300フィート(約90メートル)の岩山という天然の要害であり、紀元前から利用されてきた。3600年以上前から使われていたとする説もある。 12世紀半ばにイングランド王家の城となり、中近世を通じて王家の有数の城のひとつとして歴史の舞台を彩った。 現在もなおイギリス王室が所有しており、イングリッシュ・ヘリテイジが管理を委託されている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 明確な範囲では紀元前5~8世紀にまで遡ってヒルフォート((要害に土塁などをめぐらせて防衛した集落や放牧地))として使われていたと判明している。 ローマ時代には付近の海岸線の監視と防衛のための烽火台として用いられていた。 石造の基礎の上に木造の見張り台が築かれていたほか、陸側に堀と城門を設けており、事実上の城だった。この砦はローマ衰退後も利用されていた。 ヴァイキング時代にはスカーシという将がここに本拠を置いた。このスカーシのバラ(=城)が転じてスカーバラとなった。 現在に残る遺構の中で年代がはっきりしている最古のものは、西暦1000年前後に建てられたと思われる教会堂である。この教会堂はノルウェー王ハーラル3世の軍に一度破壊されのちに再建された。 無政府時代と呼ばれる内乱の続く1138年に、オマール伯((ノルマンディの貴族で、フランス王フィリップ2世によってオマール領が併合されたためにイングランドに亡命していた))ウィリアム・ル・グロスがスティーブン王からこの地を下賜され城と城下町を築いた。このときの城は木造のモットアンドベイリー式の城であった。 1154年スティーブンから王位を継ぎプランタジネット朝を開いたヘンリー2世はオマール伯に城の引渡しを命じ、伯は反発するが城は破壊される。 その後1157年から1169年にかけてヘンリーの手によって改めて石造の新しい城が建設される。現在残るキープはこのときのものである。 獅子心王リチャード1世を挟んでその次代のジョン王、ヘンリー3世、エドワード1世も続けて城の強化に予算を投じている。 #br しかしその次のエドワード2世はそんな重要な城をあっさりと寵臣ピアーズ・ギャヴィストンに下賜してしまった。 ギャヴィストンへの寵愛は他にも問題を山のように引き起こしており、他の諸侯の反感を買ってついには二人を対象にした反乱に発展する。 1312年、[[ウィンザー城]]にいた二人を反対派が襲う。二人はウィンザーを脱出して比較的国王派・穏健派だった諸侯のもとを転々とするが、最後に追い詰められたのがギャヴィストンの持ち城、ここスカーバラ城だった。 王とギャヴィストンは5月から6月にかけて三週間にわたってわずかな手勢とともに籠城するが結局降伏し投降する。 王の懇願によってギャヴィストンは助命されフランスへ永久追放となった。―が、その途上で助命に納得しない反ギャヴィストン派のウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムらが護送列を襲撃して拉致、自領[[ウォリック城]]で私刑にかけて処刑してしまった。 #br イングランド内戦中にはスカーバラは有数の激戦区となる。町の支配権は7回変わり、城も1645年と1648年の2回に渡って攻め落とされる。 両軍ともスカーバラの港を補給拠点に使いたかったためで、特に1645年の攻防戦は内戦中最も熾烈な攻城戦のひとつに数えられるほど激しかった。 攻める議会派側は城に隣接する聖メアリ教会に砲を据えつけて城を砲撃した。砲撃でキープとその前にあった城壁が半壊するほどの手ひどい打撃を受けるが、籠城した王党派は弾薬と食料が底をつくまでの5ヶ月間城を明け渡さなかった。そして内戦が終わったとき、城も町も大部分は廃墟と化していた。 その後はスカーバラは温泉保養地として活気を取り戻し、城は王政復古ののち王家の手に戻る。城は主に牢獄や兵舎として使われた。 第一次大戦中の1914年12月にはドイツ帝国海軍の巡洋戦艦『デアフリンガー』『フォン・デア・タン』による艦砲射撃を受ける。 城と市街地に500発以上の砲弾が撃ち込まれ、17人の死者と80人以上の重軽傷者を出している。城の損傷は1920年代に補修されたが、砲撃で損壊した兵舎については再建されなかった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|イングランド、ヨークシャー、スカーバラ| |現存状態|城壁、主城塔、城門| |城郭構造|囲郭式城郭| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ ***城郭構造 北海に突き出した高い岬の陸地側に長い城壁とその各所に塔を築いて防御している、典型的な岬城。 岬の先端に向かって広大な城地を有し、その中に居館その他の設備や教会堂などがあった。 防御の拠点は町側から城に上がる唯一の道が城に入る周辺の主郭部分で、城門やメインキープはすべてこの周辺に集中している。 12世紀ヘンリー2世の時代に建てられたキープは城壁に近接するが城壁からは独立して建つ矩形のキープで、高さは26メートル。 キープのすぐ下に主郭の大手門があるが、キープ自体も防衛に使える配置になっているためこちらの城門塔は控えめなもの。 その代わりにそこから下っていく尾根上の大手道に横堀を儲け、そこに前後に跳ね橋を持つ城門塔を置いて防御を固めてあった。 大手道も両側を城壁で固め、また城門塔のさらに外側に外郭を持つ。こちらにも城門塔を設けている。総じて防御力の高い堅城である。 }}} #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){『スカボロー・フェア』について}; }}} #style(class=submenu){{{ **『スカボロー・フェア』 直訳すればスカボローの市。 サイモン&ガーファンクルの歌った『スカボロー・フェア』があまりにも有名であり、曲についての考察や説明は豊富にあるため詳細は割愛する。 S&G版のメロディが有名だが、もともとの原型は17世紀に遡れる古い童謡であり、メロディも異なっていた。 題材となったスカーバラの大市は1253年に出されたヘンリー3世の貿易勅許状を起源とするもので、毎年8月15日から45日間という長期間にわたって行われた。 最盛期にはブリテン諸島各地と北海沿岸諸国だけでなく、バルト海や地中海、遠くビザンツ帝国からも商人が集まった盛大な市が開かれていた。 しかし他都市の興隆もあり、17世紀初頭ごろには衰退した。18世紀に一時期リバイバルするが、1788年に開かれたのを最後に開かれていない。 現在では毎年夏に当時をしのぶイベントが開かれている。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,)