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鶴賀城 の変更点

別名「利光城」とも言われ、険しい連山の頂に築かれた山城である。

以前は、豊後の豪族、大神惟基の二男阿南惟家が治めていた。
建久七年(1196)大友初代、能直公が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の旧族(大神一族緒方氏、阿南氏)を一掃した。
能直の孫(能直の三男?) 親家・大友親家に「利光」を名乗らせ、以来三百九十年間代々府内南の要衝として治めた。
能直の孫(能直の三男?) 親家・大友親家に「利光」を名乗らせ、以来390年間代々府内南の要衝として治めた。
天正十四年(1586)大友、島津の確執はやがて「豊薩の陣」へと進んだ。十一月には家久率いる薩摩軍二万の精鋭が伊集院美作を先陣に、二陣、三陣と攻め寄せた。
援軍の大友、四国連合軍は「戸次川の合戦」で大敗を喫する。
斜陽の大友家に節義を貫く城将・利光越前守宗魚の率いる三千余の豊後勢は、善戦数十日に及ぶが、城主の宗魚は戦闘の最中に流れ弾にあたって討死したという。
城内では城主の死を伏せて尚も固く守っていたが、豊臣秀吉が派遣した仙石久秀率いる四国勢が戸次川合戦で島津軍に大敗を喫すると、鶴賀城は降伏開城となった。
軍勢の差は大きく、水・食料を断たれ、矢弾は尽き果て、悲運な最期を遂げる。
翌十五年、豊臣秀吉軍が九州平定に出陣し、薩将・島津家久を収め、豊薩の天王山ともいわれる鶴賀城攻防戦は終わった(『現地説明板』)。

標高193mの主郭を中心に遺構が良好に残存。付近には長宗我部信親の墓や十河一族の慰霊碑が残る。
鶴賀城は大野川東岸の標高193mの山頂に築かれており、現在は公園として整備されている。

鶴賀城は現地の呼称で紹介すると、山頂に本丸、東へ伸びた尾根に二の丸、三の丸、北へ伸びた尾根に穀倉跡、ノロシ台跡などの曲輪群を配している。

本丸は土塁囲みで一段低くなった広い空間の北側に櫓台と土塁を備える一段高い段が付く。
その周囲には畝状竪堀群が巡り、南東側の尾根は三重の空堀によって遮断している。

本丸から東へ伸びた尾根にある二の丸、三の丸は曲輪としては規模が小さいが、南側の道路に面して土塁の防塁が伸びている。
三の丸には畝状竪堀群が残るようだが、この辺りは藪で確認できなかった。

北に降りていくと穀倉跡と記された曲輪があり、周囲に畝状竪堀群が残る。北西側へ降りるとノロシ台を経て成大寺に至る。
北へ降りると広い曲輪群を経て竪堀と堀切で遮断した尾根を下ると神明神社に至る。
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|所在地|大分県大分市大字上戸次字利光|
|現存状態|土塁跡|
|城郭構造|山城|
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