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鶴巣館 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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鶴巣館は鶴盾城とも呼ばれる、大崎氏の支族で大崎氏と伊達氏の間で紆余転変を経た黒川氏の最後の居城であった山城である。
吉田川支流竹林川右岸南方の丘陵の先端部を東西に伸びる尾根を利用した本格的な山城で、連郭式山城の主要部分は尾根を全体に使い大規模になっている他、多数の横堀などを用いるなど、最前線の城という印象を強く与える構造である。
また麓の竹林川沿いには同時期の城である[[下草城]]が存在しており、鶴巣館は詰めの城という位置づけもあったものと考えられている。
築城時期は不明であるが、一説には洞の乱終結後の天文年間末期1550年頃に黒川景氏が築城したという。
当時の黒川氏は北方の本家筋である斯波氏一族大崎氏と、南方から勢力を強める伊達氏の間で揺れ動いており、景氏自身は伊達一族からの養子であるなど双方の勢力の最前線という難しい立場に置かれていたことが堅固な山城を求めた理由かもしれない。
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戦国時代中期以降の黒川氏は景氏の子が継いでいき、大崎氏との繋がりは持ちつつも基本は伊達氏家臣という立ち位置であったと考えられている。
この状況は伊達氏と大崎氏の関係が平穏であった時代にはうまくいっていたが、伊達政宗の代になり大崎氏ならびにその背後にいる最上氏との対決姿勢が強まると黒川氏の立場は一気に難しいものとなった。
当時の当主晴氏は大崎義兼の娘を妻とし、また大崎義直の子義康を養子としていた一方、娘は留守政景に嫁がせるなど、やはり双方につながりを持っていたためである。
最終的に伊達勢が大崎家中での氏家吉継と新井田隆景の対立に介入する形で出兵する、いわゆる大崎合戦が勃発すると、晴氏は伊達勢の後詰めとして[[桑折城]]に入っていたが、伊達勢が[[中新田城]]攻略に失敗すると突如大崎方に転じ伊達勢を強襲し散々に打ち破った。
敗走した伊達勢は何とか[[新沼城]]まで撤退したものの、最上氏が置賜地方に出兵し圧力をかけていたため救援の見込みはなく、完全に敵中孤立状態で包囲されるという悲惨な状況であった。
しかし伊達勢の主将の一人が留守政景であったことから、今度は双方の和平を仲介し最終的に成立させることで娘婿の窮地を救った。
その後黒川氏は奥州仕置において小田原不参のかどで改易となり、さらに晴氏が大崎葛西一揆鎮圧後に[[岩出山城]]で開かれた祝いの席に来席しなかったために、大崎合戦のかどもあわせ伊達政宗の怒りを買い捕縛された。
同様の理由で捕縛された長江勝景(上述の和平の際に人質として最上氏に送られ、内応を条件に早期に解放されたと言われている)が秋保氏によって殺害されたのに対し、晴氏は留守政景が必死にかばい立てしたことで許され、その後は留守政景の庇護の元余生を過ごし亡くなっている。
鶴巣館も奥州仕置と同時期に廃城となったと見られている。
跡地は特にめぼしい整備をされておらずほとんどが藪に埋もれており、さらに城域の一部は近接するゴルフ場の開発の際に失われているとされるが、土塁や堀切などを今でも確認できるとのこと。
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|所在地|宮城県黒川郡大和町鶴巣下草字迫|
|現存状態|土塁、堀切|
|城郭構造|連郭式山城|
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