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高峠城 の変更点

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高峠城(たかとうげじょう)は東予と南予の境目に近い、加茂川が平野部に流れ出る部分の蛇行に挟まれた標高233mの高峠山に築かれた山城である。
1370年前後に伊予河野氏当主の河野通直(通堯)によって築かれたとされ、当時東予で繰り広げられていた細川頼之との対峙のための城であった。
康暦元年(1379年)、河野通直は北朝に通じ同年に失脚していた頼之討伐の命を受け、これを攻撃するも、逆に討ち死にしてしまい、その子通義の代の和睦により東予は細川氏の勢力下に入り高峠城は石川氏が代官として城主となったという。
しかし、この時代の伊予の事績は河野氏における本家と予州家の対立なども含めてかなりの混乱が見られ、高峠城の歴史についても石川氏の出自なども含め不明瞭な点が多い。
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城主である石川氏は河野氏から養子を迎えたと見られるなど、河野氏との結びつきが強まったと考えられているが、これについては異説もあり、やはり判然としていない。
事績がある程度はっきりしてくるのは石川通清の代からで、通清は享禄年間に黒川氏の剣山城への備えとして高尾城を築いた他、三好長慶の娘を娶ったことから三好氏に通じ、元亀3年(1572年)の三好氏の伊予侵攻の際に道案内をしたともいう。
この際には河野通吉(伊予河野氏最後の当主河野通直の父とされる)が高峠城を攻撃し、三好勢を撃退している。
この際には河野通吉(伊予河野氏最後の当主河野通直の父とされてきたが最近では否定説が有力視されている)が高峠城を攻撃し、三好勢を撃退している。
このように、高峠城主石川氏は河野氏などと一定の関係も持ちつつも東予の独立領主とも言える立場にあったが、一方で戦国時代末期には重臣である金子城主金子元宅が実権を握っていたとされている。
長宗我部氏が伊予に勢力を広げると、金子元宅とともに石川氏も長宗我部に降り、天正13年(1585年)の秀吉の四国攻めでは金子元宅が幼い当主石川虎竹丸にかわり高峠城に入り小早川隆景の軍勢を迎え撃つも、高尾城ともども落城、虎竹丸を逃がした後元宅らは討ち死にした。
高峠城は以降名前が見られないことから、この際に廃城になったようである。
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城跡には山頂の主郭曲輪付近まで農道が通じているが立ち入りには注意が必要とされている。
現在でも主郭を構成する曲輪がある程度明確に残されているが、それ以外の遺構は見られないようである。
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|所在地|愛媛県西条市洲之内乙|
|現存状態|曲輪|
|城郭構造|山城|
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