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飛騨松倉城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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戦国三国司の一つである姉小路家を乗っ取った三木良頼の子で、戦国大名姉小路氏の全盛期を築いた姉小路頼綱(三木自綱)の居城。
頼綱は元亀3年(1572年)に父の死により家督を継ぐと、当初は上杉氏と結んでいたが織田信長とも通じ、天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると上杉氏を見限り織田氏につくこととなった。
織田氏への鞍替えに反発する国人は多かったが、頼綱はこれに対し新たに松倉城を築いて桜洞城から居城を移し、飛騨の統一を図った。そのなかで松倉城は高山盆地を一望し、北は越中、南は岐阜、東は木曽、西は郡上に通じる街道を押さえる、飛騨統治の要所として機能していた。
頼綱は反対勢力を次々と攻め滅ぼし、天正10年(1582年)には姉小路氏と飛騨での勢力を二分する長年の宿敵であった江馬輝盛を、「飛騨の関ヶ原」と呼ばれる八日町の戦いで討ち、翌年には飛騨統一を達成した。

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本能寺の変後は[[北ノ庄城]]主柴田勝家、[[富山城]]主佐々成政と結んで羽柴秀吉とは対立したが、勝家は天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、成政も天正13年(1585年)の越中征伐で秀吉の侵攻を受けることになる。
この時秀吉は[[越前大野城]]主金森長近に飛騨攻めを命じ、長近は養子の可重に別働隊を率いさせて南北から松倉城に迫った。
松倉城は頼綱から家督を譲られていた秀綱が守っていたが、味方の裏切りもあって落城、高堂城にいた頼綱も降伏し、戦国大名としての姉小路氏は滅亡した。
飛騨攻めの後、長近は飛騨一国を与えられ松倉城を改修したが、天正16年(1588年)に[[高山城]]を築き居城とすると、松倉城は廃城となった。
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松倉城は山頂に本丸を置き、北東が大手、西側が搦手となっている。外郭で囲まれた主郭の東側には二の郭、西・南側には三の郭がL字型が配置された。
南北約22メートル、東西約24メートルの主郭は、南北約30メートル、東西約37メートルの外郭で西と南をL字型に囲まれ、南側には小規模ながら枡形虎口が設けられた。
主郭より約8メートル低く、石垣で隔てられている三の郭には南端と西端に櫓が置かれた。二の郭は南東端に大手門が置かれ、その先には小曲輪があり、さらに先の段状の曲輪群を経て大手口につながっている。
松倉城では主郭など城の主要部に石垣が用いられているのが特徴で、その多くは自然石を加工せずに積み上げた中世城郭によく見られる野面積みだが、角部には加工した石を使用し石垣の隙間は詰石で埋めているなど近世城郭に近い構造にもなっており、中世城郭から近世城郭へと移行する転換期の城だったと考えられる。

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|所在地|岐阜県高山市|
|現存状態|土塁、石垣、堀切など|
|城郭構造|山城|

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