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雫石城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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足利氏の別流として別格の家格を誇り、室町幕府三管領家の筆頭でもある斯波氏の一族、奥州斯波氏の一門が拠点とした城。
南北朝の動乱時代、興国元年・暦応3年(1340年)に北畠顕信が陸奥に入り、南部政長が磐手郡西根を北朝方を破り西根要害を構築したことを賞しており、この西根が滴石の西根を指すか八幡市西根を指すかは意見が分かれている。
顕信は貞和2年(1345年)~観応2年(1351年)頃まで滴石に滞在しており、滴石は南朝方の拠点として機能し、この頃に現在は滴石古館と呼ばれる平地の館が築かれたとされる。また平時の統治拠点とは別に、背後の山に大館と呼ばれる山城が築かれた。
また滴石では戸沢氏が南部氏や河村氏などとともに南部方として活動していたが、後にその一族が出羽の門屋へと移り、戦国時代には[[角館城]]を本拠とする戦国大名に成長している。
また滴石では戸沢氏が南部氏や河村氏などとともに南部方として活動していたが、後にその一族が出羽の[[門屋>門屋城]]へと移り、戦国時代には[[角館城]]を本拠とする戦国大名に成長している。

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滴石に残った戸沢氏はその後内紛を繰り返し、天文年間には[[高水寺城]]を本拠とする斯波詮高が滴石を攻略して戸沢氏を追いやった。
詮高は三男の詮貞を滴石に入れ、この時に滴石の地名が雫石に改められ、焼失した滴石古館に代わって新たに雫石城を築いて居城とし、「雫石御所」と尊称された。
やがて高水寺斯波氏は、南部氏の最盛期を築いた南部晴政の南下によって圧迫されるようになり、雫石城は天正12年(1584年)から南部信直の攻撃を受け、天正14年(1586年)に攻略されて信直の直轄城となった。
その後高水寺斯波氏の本城である高水寺城も天正16年(1588年)に攻略され、高水寺斯波氏は没落した。
雫石城は天正20年(1592年)に作成された「諸城破却書上」に「滴石 平城 破 信直抱 代官 八日町太郎兵衛」と記されており、破却されたことがわかる。

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|所在地|岩手県岩手郡雫石町|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平山城|

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**城郭構造 [#qb30d51d]

雫石城は雫石盆地の中央部、東流する雫石川左岸の河岸段丘上に築かれ、段丘上に東から本丸、二の丸、三の丸、西郭と連なっている。
本丸跡の八幡神社周辺には低い土塁が残り、本丸の東側に二重堀、西側にも空堀が設けられた。さらに西側の雫石代官所跡までの間にも数条の空堀がある。
背後に控える標高354.1メートルの山に築かれたが大館で、北側の山から南へ盛り上がりT字形に広がる場所に立地する。その中枢部はT字の要を主郭として南斜面以外の三方を広い曲輪が囲む梯郭式で、さらに東、西、北の三方に延びる尾根には連郭式に曲輪を置く多郭構造の山城となっている。
城の施設は山頂平坦部や尾根上に集中しており、斜面に腰曲輪や雛壇状の曲輪が発達する戦国時代の山城とは異なり、南北朝時代から室町時代前期の山城と考えられている。

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