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雨鳴城 の変更点

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『甲斐国志』には「東南ヘ一級下リ馬冷場ト云処三面ニ塁ヲ設ク」とあり、中野城の築かれる城山と雨鳴山を結んだ尾根の絶頂付近、標高833メートルにある遺構を雨鳴城(あまなりじょう)と比定している。
この地は源氏秋山光朝が源頼朝の追い討ちをうけ自害した地として伝承され、山を下りたところに秋山光朝館(現:熊野神社)があった。
城の呼称は雨鳴山に由来し、その山の名前は『甲斐国志』に曰く、光朝の父加賀美遠光が鳴らしているとされ、里人の間では「雨が降る前に鳴る」と言われていた、とある。また、この声は滅多に聴けないため聞くと災いを齎すと考えられた。
熊野神社境内からは江戸時代前期に銅製の経筒二点が常滑焼の甕などと共に出土し、そこに刻まれた銘文から、源朝臣光経らが施主ちなって一族の繁栄を願って建久8年(1197年)に埋納したことが分かる。

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城郭規模はあまり大きいものではない。主に四つの郭が存在し堀切や土塁で隔ててあり、平林方面を向けば離れたところに三角の小さな郭が確認できる。四つの郭のうち主郭は南端で幅25メートル、長さ30メートルの規模を持ち、現在でも南東の崩落を除き痕跡が残る。
北西の端には虎口が設けられ、主郭とその北方面を隔てる堀は竪堀となり西側から登り上がってくる敵の進行を防ぐ。さらにその北側の郭を隔てる堀切は堀底に湯沢・中野方面からのぼってきた山道が通り、北橋の郭は土塁によって隔てた。


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|所在地|山梨県南アルプス市湯沢・中野|
|現存状態|堀、堀切、尾根|
|城郭構造|山城|

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