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難波田城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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読みは「なんばた」。埼玉県富士見市、荒川と新河岸川に挟まれた場所にあった城。
平安・鎌倉時代の武蔵国の有力武士団だった武蔵七党のひとつ、村山党金子氏のさらに支流難波田氏がこの地を開発して築いた。
開発当初は新河岸川側に館を営んだともされるが、その場合は後に周囲の情勢の変化に応じて現在の位置に改めて城を築いたと考えられる。
高さはないが、低湿地帯に広がる深田に囲まれただけでなく後の拡張で入り組んだ水濠を備え、防御に長けた構成になっていた。
難波田氏の中で著名な人物に扇谷上杉家に仕えて[[松山城>武蔵松山城]]風流合戦に名を残し、また[[河越城>川越城]]の戦い(河越夜戦)の立役者ともされる難波田弾正憲重(法名を善銀)がいる。

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難波田氏は足利尊氏と弟の直義の対立(観応の擾乱)で直義派に組して尊氏派を妨害したため、乱の後に鎌倉府に領地を没収される。
経緯は定かではないが(一説には幕府から寺社に寄進された領地を代官として治めた)室町末期には領地を取り戻し扇谷上杉家に仕えた。
難波田弾正の嫡男及び甥は天文6(1537)年の河越城落城のさいに戦死し、弾正は扇谷上杉朝定の重臣として松山城で防戦した。
天文10年に河越城を攻めた扇谷勢の中に弾正の名がある。また山内上杉憲政・古河公方足利晴氏との使者としても活動したと伝わる。
しかし天文15年主君朝定が戦死し扇谷家が滅亡した河越夜戦のさ中、河越東明寺付近において古井戸に落ち戦死した。
弾正の死後、城は娘婿の太田資正が家督と共に一時継いだが、上田朝直(難波田弾正の甥でもある)が資正から任せられた松山城ごと北条側に転じた後に上田一族の上田周防守(左近)が城に入った。

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岩槻を拠点とする太田資正とはその後も入間川((当時は荒川はここを流れていない))を挟んでの抗争が続いた。
北条方の清水政勝が難波田城を攻めた記録が残ることから、一度は資正方に奪われていたと考えられている。
資正が岩槻城を追われて常陸に逃れたのちは北条方の城に戻り、小田原征伐の後に周囲の諸城と共に廃城となった。
江戸時代には十玉院という寺院になったが城の跡をよく留めていたという。
難波田(なんばた)の名前は南畑(読み同じ)に転じ、今も城周辺の地名として残っている。

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現在城跡は埼玉県旧跡に指定され、難波田城公園として整備された。特色である水濠が復元されている。
平成9年から城址公園として復元整備され、平成12年に開園した。園内には市内の古民家も資料館として移築された。
平成9年から城址公園として復元整備され、平成12年に開園した。園内には市内の古民家も移築され、資料館と共に地域の歴史を伝えている。
発掘調査によって解明された上田氏時代の復元模型が館内に展示されている。本丸を三重の水濠と土塁・帯状の曲輪で囲んだ水城であった。
復元されているのは城内の南半分ほどで、本丸から北は宅地及び農地になってしまっており旧状は窺えない。

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|所在地|埼玉県富士見市下南畑|
|現存状態|曲輪、土塁、水濠、木橋、城門 (復元が主体)|
|城郭構造|平城・水城(輪郭式?)|

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