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雑学 の変更点

いろいろな雑学を披露できる場です。
また知識を深める場でもあります。
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たとえば・・・
「大刀」「太刀」ってなに?
「打刀」ってなに?
具足とかについて知りたい
城の防衛設備について教えてほしい
「官位」ってなに?どんな官位があるの?
「山陰道」とか「出羽」とかってどういうものなの?
などなど
疑問に答えてくれる人が現れることを期待して待ちましょう。
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各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。
[[城娘]]・[[アイテム>城娘項目]]・[[兜>兜/解説]]

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*武具について [#r2cbf4bf]

平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。
中世の武具を専門とする歴史学者近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。
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だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。
江戸時代には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。
幕末動乱期には長い刀を実戦で試す武士もいて、やはりうまくいかなかったようです。
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旧城プロでは「三池光世」という刀を開発できましたが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。
先祖が徳川家康から拝領した、葵の紋入りの「三池典太光世」を佩(は)いて活躍するのは、『古着屋総兵衛影始末』シリーズの主人公、大黒屋総兵衛。
他にも有名な刀の名前がそのまま使われているものがありますね。
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脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。
江戸時代に庶民が所持を許されるのは2尺(60cm)未満が目安で、この長さぎりぎりを狙ったものを長脇差と言い、博徒の典型的な持ち物でした。
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太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。
上記の事情で小太刀での戦闘も江戸時代には研究され、道場もあったのですが、斬撃は受け流し(左から斬りつけられたら、受け止めながら右へステップ)刺突のチャンスをうかがうという、ちょっとスポーツにしづらい動きが基本でした。
とはいえ現在でも、全日本銃剣道連盟が短剣道の大会を主催しています。
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「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。
大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国時代の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。
長柄槍をひとりで構えても、ふところに飛び込まれればなすすべもありませんが、集団で穂先を上げ下げされると近づくのは容易ではありません。
**刀 [#yd94baff]
刀の分類は寸法で大ざっぱに分類されそれぞれに、太刀、打刀、脇差、短刀と区分されています。

-''太刀''
刃渡りが二尺以上とされています。
馬上での戦いを想定しており、反りが強く、刀身が長いのが特徴です。
後述の打刀とよく似ており銘を切る位置などで区別されています。
見分け方としては刃を下向きにして、太刀緒で腰から下げているのは概ね太刀です。
刃を下向きにするのは馬上で抜きやすくするためでもあります。
長さによって、太刀、大太刀(野太刀)、小太刀と更に分類されます。
平安時代から作られはじめ、室町時代頃までは主流でしたが、徒戦が増え後述の打刀へと移っていきました。
有名な天下五剣も全て太刀であり、それぞれ平安時代~鎌倉時代の作とされています。
--''天下五剣''
童子切、鬼丸、三日月、大典太、数珠丸の五本。

-''打刀''
刃渡りは二尺三寸前後の刀です。長さは時代によって変わっていました。
室町時代から作られはじめ、徒戦用に作られた刀です。
戦は馬上から歩兵による集団戦に移行し需要が増えたとされます。
刃は上向きで、腰帯に差して帯刀していました。
刀身中央での反りが強く、腰に帯びた状態で抜きやすいよう工夫がされています。
後述の脇差に対して、本差とも呼ばれます。

-''脇差''
刃渡りは一尺以上二尺未満とされています。
本差しが使えない状況での予備の武器です。ゲームで言うところのメインに対するサブもしくはセカンダリです。
当初は打刀(本差)に添えて脇に差す小刀を意味しており、江戸時代には大小の小と呼ばれています。
(大小とは打刀と脇差の小刀をセットにした言い方で、大小の小とは小刀の方を意味しています)

-''短刀''
長さ一尺以下の刀の総称です。
所持の仕方から懐刀と呼ばれます。
子供や女性の懐剣なども含まれています。
**槍 [#ifb8df70]
木製の長柄の先に、先端をとがらせた刃を付けた穂を挿し込んだ武器です。
穂の形状によって素槍、鎌槍、十文字槍、鉤槍、管槍など種類が分かれます。
応仁の乱以降、足軽の装備は長槍が主となっていきました。
-''薙刀''
長刀とも書きます。
刃先が広く反り返った刀で、中心を長くして、長い柄を付けたものです。
平安時代の末頃から歩兵や僧兵が人馬をなぎ払うのに用いましたが、戦国時代には衰え、江戸時代には武家の女子が武道として習得しそれが今日にいたります。
-''竹槍''
一揆御用達、農民の主戦力です。
竹の先端を鋭利になるよう切り落とし、火であぶる、油で揚げるなどして熱による硬化加工して作られた即席の槍です。
竹は手に入りやすく加工もしやすいため数もそろえやすいものでした。
前述の一揆や落ち武者狩りなどに使用されました。
**弓・石弓[#te717dff]

律令制のもとで各地に置かれた「軍団」は、動員される側にとって負担が重い反面、唐・新羅への警戒や蝦夷との対立と関係がない地域では必要も小さく、東国と九州にだけ比較的後まで大規模なものが残りました。坂上田村麻呂が率いたのもこの種の戦力です。この軍団は基本的には歩兵編成であり、弩も持っていました。
しかし政府管理下の大規模な(歩兵)軍団が衰微し、騎馬武者を中心とする武士団が武力の中心になると、長弓を持ち機動する鎧武者に比べて弩の利点は薄れ、長弓の威力が上がるのに対してそのまま忘れられていきました。
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-''長弓''
その名の通り長く大型の弓を指し、和弓やロングボウがこれに分類されます。短弓と比較すると使用する矢が長く、重い分高威力ですが、反面射程と速射性に問題がありました。
その大きさから騎兵が使用するには不向きで、もっぱら歩兵の武器として使用されてきました。また、和弓は世界的にも非常に大型の弓で、上下非対称な構造が特徴的です。
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-''短弓''
長弓とは対照的に短く小型の弓を差します。こちらは取り回しの良さから騎馬での運用が主であり、大陸の騎馬民族を中心に使用されてきました。
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-''弩(石弓)''
いわゆるクロスボウであり、弦で矢を弾き飛ばす、という点では弓と同じですが、その実全くの別物で、どちらかというと鉄砲に近い武器です。
最大の違いとしては、弓が高所から落下する位置エネルギーを威力の源としているのに対して、弩は弦で弾いた矢の運動エネルギーを威力の源としている点です。使用する矢も弓のものとは異なり、ボルトと呼ばれる太く、短いものを使用します。
弓と比較すると極めて高い威力を持っており、射程も長いですが、殺傷力を発揮できる有効射程は弓に劣り、高威力の代償として張力が非常に強く、装填にかなりの力、または時間を要することから連射は出来ないという欠点も抱えていました。
また、弓と比べると技術の習熟が短時間で済むという利点もあります。
戦場に登場してからは、分厚い鎧も易々と貫通するその威力から、そういった鎧を装備する騎士階級からは(生け捕りにして身代金を要求する当時の流儀にそぐわない、一兵卒でも簡単に操作でき、容易に騎士という特権階級を打倒しうるなどの理由から)忌み嫌われており、「非人道的である」という理由でキリスト教徒に対して使用を禁止する旨の法令が出されたこともあるほどでした。
**鉄砲 [#ic1bd05c]

最近では、鉄砲が1543年以前から日本に入ってきていた可能性もあるとされていますが、日本への伝来はヨーロッパで火縄銃が登場してからおよそ100年後のことでした。
戦国末期には早合(はやごう)と総称される1発分の装薬(弾を飛ばす火薬)と弾のセットが実用化され、現代の再現実験では再装填まで10秒を切った記録もありますが、同様の西欧の工夫が入ってきたのか独自の発展かは説が分かれています。
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後ろから弾を込める小銃、金属薬莢、起爆薬・雷管による発火はすべて1800年以降に登場しました。
つまり1800年代前半から日本の幕末・維新期にかけ、西欧では怒涛の銃器革新が起こったのであり、幕末には中古ないし売れ残りの旧式銃を売りつけられる藩と最新式を手に入れる藩が混在しました。
ですから江戸時代になっても、しばらく日本の銃は世界の最新水準からそれほど遅れていなかったと言えるでしょう。
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ただ火縄銃は密集隊形に適さなかったのに対し、江戸時代に西欧では火打石を使うフリントロック式小銃が登場しました。
また徴兵制をとる国が増え(イギリスには1916年まで徴兵制が敷かれなかったのが大きな例外です)、密集した大規模な小銃隊を槍隊と組み合わせ、やがて銃剣を使って両方を兼ねさせると言った運用面の進化に大きく後れを取ることになりました。
逆に言えばそれも戦国の世が過ぎてから相当あとのことでした。ヨーロッパの鎧騎士が傭兵隊と向き合うように、戦国期日本の鎧武者も鉄砲足軽隊との戦いを強いられ、火力と接近戦能力のバランスを試行錯誤していたわけです。
**大砲 [#r86c1024]

1576年、日本では大友宗麟がポルトガルの宣教師より購入したフランキ砲を「国崩し」と名付けて使ったのが大砲の初見とされます。
大坂夏の陣では、徳川家康がイギリスのカルバリン砲やセーカー砲、オランダの半カノン砲(半加農砲)を用いて、淀殿の侍女の命を奪ったことが和議の理由の一つとされます。
そして、幕末の第二次長州征伐や戊辰戦争によって、近代的な大砲による野戦や攻城戦が本格化したと言えます。

*城について [#r5f06a1e]

**現実の城年表 [#b2a8cf68]

|BGCOLOR(#ddd):200|600|400|c
|BGCOLOR(#555):COLOR(White):時期|概要|h
|弥生時代|[[吉野ヶ里]]など環濠集落の出現。|
|大化3年(647年)|渟足柵設置。記録上最初の古代城柵。|
|天智天皇2年(663年)|白村江の戦い。以後、唐・新羅の侵攻に備えた[[大野城]]など古代山城の出現。|
|大宝元年(701年)|[[大宰府]]、政府機関として確立。|
|和銅3年(710年)|平城京に遷都、奈良時代の始まり。|
|和銅3年(710年)|[[平城京]]に遷都、奈良時代の始まり。|
|神亀元年(724年)|[[多賀城]]築城。古代城柵の代表例とされる。|
|延暦13年(794年)|[[平安京]]に遷都、平安時代の始まり。|
|弘仁2年(811年)|徳丹城設置。記録上最後の古代城柵。|
|弘仁2年(811年)|[[徳丹城]]設置。記録上最後の古代城柵。|
|10世紀後半|[[大鳥井山]]築城。初期の山城の出現。|
|治承4年(1180年)&br;~&br;建久3年(1192年)|鎌倉幕府の成立。中世山城の出現。|
|元弘元年(1331年)|後醍醐天皇、[[笠置山城]]で挙兵。南北朝時代の幕開け。山岳寺院の活用。守護館の出現。|
|明徳3年(1392年)|南北朝の合一。南北朝時代の終焉。|
|応仁元年(1467年)&br;~&br;文明9年(1477年)|応仁の乱による戦国時代の幕開け。籠城戦の本格化。大名系城郭の広がり。|
|天正7年(1579年)|織田信長による[[安土城]]の天主建築を契機とする織豊系城郭の出現。|
|天正10年(1582年)|明智光秀の謀反により織田信長横死。(本能寺の変)|
|天正18年(1590年)|豊臣秀吉の小田原攻めにより[[小田原城]]開城、奥州仕置の完了。戦国時代の終焉。|
|慶長5年9月15日&br;(1600年10月21日)|関ヶ原の戦い終戦。以後、[[江戸城]]、[[名古屋城]]など徳川政権による天下普請の開始。|
|慶長20年5月8日&br;(1615年6月4日)|大坂の陣の終結。徳川家康による天下統一。|
|慶長20年6月13日&br;(1615年8月7日)|江戸幕府による一国一城令。|
|嘉永6年(1853年)|[[品川台場]]など台場の出現。|
|文久2年(1863年)|最後の日本式城郭[[石田城]]が完成。|
|慶応4年1月2日&br;(1868年1月26日)|戊辰戦争の勃発。|
|明治2年5月18日&br;(1869年6月27日)|[[五稜郭]]の旧幕府軍が新政府軍に降伏。戊辰戦争の終結。|
|明治4年7月14日&br;(1871年8月29日)|明治政府による廃藩置県。|
|明治4年8月20日&br;(1871年8月29日)|明治政府、[[仙台城]]、[[江戸城]]、[[大坂城]]、[[熊本城]]に鎮台を設置。|
|明治6年1月14日&br;(1873年1月14日)|明治政府による廃城令。|
|明治6年1月14日&br;(1873年1月14日)|明治政府、[[名古屋城]]、[[広島城]]に鎮台を設置。|
|明治10年9月24日&br;(1877年9月24日)|西南戦争終結。[[熊本城]]の戦い。|
**城を建てる目的 [#b3688cb3]

例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。
重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城(陣城)もありました。
陣城のなかでは、賤ヶ岳の戦いで用いられた[[玄蕃尾城]]がよく知られており、続日本100名城に選出されています。
また羽柴秀吉が[[鳥取城]]攻めの時に築いた[[太閤ヶ平]]も非常に大規模で緻密な構造の陣城と評価されます。
秀吉が関わった陣城とされる[[墨俣城]]の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斎藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。
逆に[[備中高松城]]は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。
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''備中高松城''は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。
統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江(現在の滋賀県北東部)を所領として与えられた羽柴秀吉が、自らが攻め落として手に入れた[[小谷城]](山城)を使わず[[長浜城]](琵琶湖沿岸の平城)に拠ったのは有名です。
''[[江戸城]]''も、徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。
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城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。
逆に兵糧と水があれば、包囲を打ち破れない劣勢な兵力でも、籠城することで救援や有利な情勢変化を待ったり、敵戦力を引き付けて他の場所で友軍を有利にしたりすることはできました。
#br
京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。
すでに尼子氏の[[月山富田城]]は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、[[石山城]]の宇喜多氏、[[三木城]]の別所氏、[[鳥取城]]・[[鹿野城]]の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。
三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。
城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落とし、陣城群を築いて包囲網を形成し、兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。
**城の変遷 [#e5cb5d04]

当初、城は山城が主流でした。山岳寺院を活用でき、あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。
戦国時代になると越前の''[[一乗谷城]]''を始めとして多くの城に城下町が形成されます。
しかしこれら山城では平地が少なく、城下町が発展しないというデメリットが生じます。また同時に、大多数の兵を駐留させるのは上杉氏の[[春日山城]]、三好氏の[[飯盛山城]]、尼子氏の[[月山富田城]]、毛利氏の[[吉田郡山城]]、長宗我部氏の[[岡豊城]]などのように、大名クラスの巨大な山城でもない限り不可能でした。
経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国時代中期から平山城が主流となります。そのさきがけとなったのが松永久秀の[[多聞山城]]だと言われています。
山城に比べ、平山城は防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。
そして戦が少なくなってきた戦国時代後期~江戸時代初期にはお城の主眼は''所領統治の拠点''となり、平城が多く作られました。
防衛技術の向上により平城でも十分な防衛能力が生まれた事や、軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などに由来します。
#br
ただし、織田信長が[[清洲城]](平城)→[[小牧山城]](平山城、あるいは山城)→[[岐阜城]](山城)→[[安土城]](平山城、あるいは山城)と居城を移していったように、単純に山城から平城に主流が移ったとは言えない面もあります。
**城の防衛設備 [#lf9f287e]

第一次大戦(1914〜1918年)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。
これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国時代の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。
[[新府城]]の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。
なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。
また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒ですよ!)
また、''刀は右上から左下へ振り下ろす方が有利''(威力を込められるし、心臓を狙える)であるため、敵に右に曲がらせるという工夫も多く見られます。
こうすると角の出会い頭、攻撃側は刀が石垣で引っかかり、城の防御側は右から振り下ろせ有利に戦えます。
#br
こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に[[熊本城]]は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。
#br
また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。
#br
秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。
[[江戸城]]から抜け穴を通って西へ抜け、[[甲府城]]に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。
#br
#region("その他いろいろ")

''木柵(城柵)''
書いて字のごとく木つまりは杭や板でできた柵です。これを集落の周りにぐるりと巡らせて敵の侵入を防ぎます。
日本で言えば環濠集落[[吉野ヶ里]]や渟足柵を代表とした北陸・東北の城柵が良い例でしょうか。
ヨーロッパでも「パリサード(Palisade)」という名称で同様の防衛手段が存在します。
#br
''石落とし''
天守台石垣上の一階部分の隅部または中央部を張り出し、内部からの攻撃が可能にする設備を指します。&color(Silver){[[松本城]]「石落としの餌食です!」};
ヨーロッパでは「バービカン」「マシクーリ」「マチコレーション」と呼ばれます。
#br
''狭間''
弓矢や鉄砲で攻撃するために城壁・土塀や櫓に設けられた小さな窓穴のことです。
ただ、もっぱら城壁には「く」の字の角があるため、矢を掛けようとすると死角が生まれます。
当然ながらそうした死角は少ない方が防衛においては有利なので、壁を入隅にしたり出隅にしたり、はたまた屏風折に曲げたりしてなるべく死角を減らす壁づくりが主流でした。&color(Silver){[[彦根城]]「天守の狭間から狙撃します!」};
ヨーロッパでは射眼・銃眼・「ループ」といいます。鍵穴型やダンベル型など、穴の形はさまざまです。
#br
''堀(濠・壕・隍)''
堀は敵の進行を鈍らせたり、敵を狙いやすくしたりする上で重要な防御設備です。
大きく分けて「水堀」「空堀」の二つがあり、時代や立地によって使い分けられています。
「水堀」が設けられる城は平城か平山城、もしくは水城と呼ばれる水域に面した城です。例外としましては、[[高取城]]には山城には非常に珍しく水堀がありました。水を張ることによって敵の侵入経路を制限します。
もし水の中を渡ろうとしても菱が体に絡みついて身動きが取れなくなったり、間者に対しても水鳥を飼っていれば気配を察し騒ぐ警報装置にもなりますから、利点が多いのが特徴です。
織田信長が築いた[[二条城>公方様御構]]の水堀には水鳥が飼われていたという、ルイス・フロイスの記述が残っています。
他方の空堀はどうでしょう。山城であれば堀切などで敵の進行を止めますが、近世城郭となると堀幅を狭くして堀底の敵を狙いやすくする意図があります。
堀をいくつも作り格子型にした[[山中城]]の堀障子は見事なものです。これは非常に効果があり、堀に落ちたくなければ体操の平均台のような細い畦を渡らなければなりません。
そんな覚束ない足取りで渡っていれば狙い撃ちされますし、関係なく進軍しようとすれば激しい勾配に足をとられ体力を消耗します。
必死に進んでも、関東ロームの地面は非常に滑りやすく、一部が沼地になっており、落ちれば出られないといった策略まで盛り込まれていました。
また、鉄砲の伝来によって堀の形も変わってきました。有効な長距離武器が弓矢であった時代は薬研堀でした。矢を射掛ける距離が短いため鋭角な堀にする必要があったのです。&color(Silver){[[水口城]]「薬研堀(やげんぼり)に誘い込め!」};
しかし、鉄砲の飛距離は矢を凌駕しますから、角度を鋭くした堀である必要性はなく、敵との距離を15間(約27メートル)以上保つために堀底を設けた箱掘が主要になりました。
#br
''石垣''
石垣と一言で言っても技法や積み方は地域・城郭・築城主・目的によって大きく異なります。
鎌倉時代・室町時代には石垣を設けた城はほとんどと言っていいほど無く、我々の想像する石垣が登場するのは桃山時代になってからです。
「元寇防塁は石垣じゃないか」という声が聴こえそうですが、あれは石築地(いしついじ)という堤防の一種であって、通常は「石塁」といいます。
室町時代も後期になるとようやく、土塁(土居)を補強する目的ではありますが石垣が登場しました。そこから石垣の歴史がはじまります。
全国を広く見渡してみると、石垣を設けた城の大半は東海より西側に集中します。腕利きの石積み職人が関西を中心に多く存在していたと考えられます。
#br
・練積(ねりづみ)
土を盛って急な斜面を作るには無理があると悟って以来、張石(土砂に石をくっつける補強)が誕生しましたが流行りませんでした。
実践に足る石垣の登場は[[安土城]]に先駆けて滋賀県の[[鎌刃城]]に認められます。石同士を粘土で接着した練積と呼ばれる技法です。
#br
・空積(からづみ)
16世紀後期になってようやく空積みという、補強用の粘土を一切使用せず、石のみで積み上げる石垣が現れます。
大きめの石の内側の隙間には飼石、外側の隙間には間石と呼ばれる小さな石をはめ込んだものです。
#br
・野面積(のづらづみ)
拾ってきた自然石を何の加工もせず次々と重ねてゆく技法です。
[[浜松城]]と[[宇和島城]]は同じ野面積みではありますが、平たい石を横一線になるように積んだ浜松城に対し、宇和島城は隙間の多い乱積みになっているという違いがあります。
#br
・打込接(うちこみはぎ)
積み石の合端(接合部)を加工し、接着面を増やした割石を使うので角ができ隙間も少ないのが特徴です。
[[名護屋城>肥前名護屋城]]は乱積み打込接、[[伊賀上野城]]は布積み打込接となっています。
#br
・切込接(きりこみはぎ)
元和(1615~1624年)以降で多用されるようになった石積み技法です。
採石した石を徹底して加工し、綺麗な断面に仕上げます。それを隙間の生じないよう丁寧にはめ込んでゆきます。
ここでも乱積みと布積みの性格が表れます。讃岐[[高松城]]が前者で[[新発田城]]が後者です。
#br
・その他
石垣の強度を上げるため石の対角線を縦に向けて斜めに積む谷積[[五稜郭]]と、六角形に加工した石を隙間なく埋め込む亀甲積[[福山城]]があります。
また積み方ではありませんが、土塁の補強や石垣の節約のため、土塁の上部に築かれた鉢巻石垣や、下部に築かれた腰巻石垣というものものあります。
#endregion
**チャシ・グスク [#b42192c8]
上記で述べられているような城の他に蝦夷地(現在の北海道)にはチャシ、琉球(現在の沖縄)にはグスクという建造物もありました。
チャシは「柵」「囲い」などと訳され、16世紀~18世紀頃にアイヌ民族が祭司や集会の場として築いたと言われ、500以上あったことが確認されていますが、はっきりとは分かっていません。
城として用いられたことが分かっているチャシとしてはシベチャリチャシがあり、和人(アイヌ民族以外の日本人)に対抗するためアイヌ民族の首長・シャクシャインが用いています。
#br
一方、グスクは12世紀~15世紀頃に築かれ、祭祀や居住のための施設も含めると300ほど確認されていますが、琉球王国の王城として存在したのが[[首里城]]です。
構造としては丸みを帯びた石垣が複雑な曲線を描き反りがなく、石造りのアーチ式の門を城門とし木造の楼閣を上げたものの、隅櫓に相当するものがないといった特徴がありました。
江戸時代には薩摩藩の支配下に置かれたものの、その影響は受けずに中国風の独特な建築物を築いていたと評されています。
**ヨーロッパの主な城郭形式 [#e187fa54]
日本には馴染みのない城郭形式に「城塞都市」というものがあります。海外、特にヨーロッパで多く見られる形式で、古くは紀元前10000年からあると言われているから驚きです。
現在確認されているもっとも古い城塞都市にイェリコ(現パレスチナ自治区領内)があり、その誕生は紀元前9000年ごろと言われています。
都市機能も十分発達し、近隣地域との貿易も盛んだったためかなり豊かな街でした。城塞化が進んだのは誕生から約1000年後、財産の防衛のため必要に駆られた結果でした。
#br
他国・他地域においても理由はあまり変わりません。諸外国からの防衛と都市機能発展のため城塞都市が次々と形成されました。
中国では[[長安城]]のような都城が、中央アジアでは「バリク」と呼ばれる城壁を持つ都市が築かれました。
ヨーロッパでは、古代ローマが各地に築いた植民市や軍駐屯地は居住区を城壁で囲み、その外の異民族に対して防御していました。
9世紀の終わり頃までヨーロッパには独立した城と呼べるものはあまりなく、都市や集落の周りに城壁あるいは市壁を築いたこのような城塞都市が主流を占めていました。
城壁や市壁を新設することも12世紀頃までは盛んでした。しかし、当然ながら時代とともに防衛機能の質・手段が徐々に変わってきます。
#br
&color(White,Maroon){ヨーロッパの城郭形式いろいろ(長いです)};
#region("主な城郭形式")
-''グラード'' / ''ブルフ''
ヨーロッパにおける最も古い築城形式の城塞です。
環状に家屋や施設を囲った木造城壁と土塁、その外側の掘が特徴で、当然ですが城塞都市に入るには城門を通るしかありません。
ちなみにロシア語やブルガリア語で「グラード(град/grad)」は街・都市(城)を指します。ブルフは英語で街を指す「borough」の元になりました。
#br
-''山城(ホーエンブルク:Hohenburg)''
9世紀ごろからドイツの中南部やさらに南のアルプス地方で盛んになった様式です。
家臣や領民を収容して持久戦を挑むための城ではなく領主の出撃拠点となる城で、山や丘の頂上部を少しだけ平らにならして周囲を土盛りと木造の城壁で囲んだだけの、城というよりは砦に近い小規模なものが主でした。ただし堀は深めに掘られていたようです。
やがて見張りと防御力の向上と物資の備蓄のために木造、後に石造の塔が建てられるようになりました。これがベルクフリートと呼ばれる主城塔に発展しました。
キープと似てはいても起源が違う、というのはこの意味です。
#br
-''モット・アンド・ベイリー(Motte-and-bailey)''
10世紀後半ごろから盛んに造られるようになった城郭形式です。
ドイツ低地地方内陸部からフランドル、フランス、そしてブリテン諸島に至る地域はほぼ平坦と言っていいような平地~丘陵地帯が広がっています。
このような場所でより早くより優位に戦いを進めるためには少しでも高いところに登りたい。けれど自分の領地にそのようないい具合の土地があるとは限らない。
そこで自然の起伏を利用して、それが無ければ人工の丘を築いてその上に城を作る方法が自然に編み出されたようです。
堀を掘った土で堀の内側(ベイリー)に丘(モット)を作り、その丘の上にこれまた木造の建築物が立てられました。
モットの上に城主とその家族の住む家が、ベイリー側には家臣の家と倉庫、馬屋、礼拝堂などが立てられているのが一般的な形でした。
そして丘と堀に沿って木造の城壁または柵を巡らせました。小規模なものではわずか8日で急造された城砦もあり、この建築スピードの速さも利点のひとつでした。
11世紀頃から石造の新築城が増え始め、12~3世紀ころには木造だった城を石造に建て直すことが増えてきます。
当様式を採用した城はイングランド、ウェールズ、スコットランドに多く現存し、代表格としてはイングランドの[[ウィンザー城]]が挙げられます。
--''シェルキープ様式(Shell Keep)''
モットを囲む城壁ははじめ木造でしたが、11世紀に入ると石造りの城壁に置き換えられるようになりました。これをシェルキープ様式と呼びます。
やがてベイリー側の城壁も石になり、中世城郭の基本形が完成します。
シェルキープ時代にモットに建てられたのはあくまで城壁であってその内側に別に城主の居館がありましたが、これはやがて統一されて一つのキープとなりました。
居住空間と戦闘城砦が一体化したメイン・キープ(主城塔)を持つ堅牢な城塞の登場です。
--''矩形キープ様式(Rectangular Keep)''
モットを作ることなく最初から石造のキープを作り、その周りに城壁や堀を巡らせる形式の城もありました。
11世紀ころから登場したこの様式は最初には四角形またはその組み合わせからなっていましたが、死角が増えてしまうことからやがてキープは円状になりました。

#br
余談ですが、キープはフランス語で「ドンジョン-donjon(語源はラテン語のドミニウム)」と言い封建権力の象徴です。
日本のRPGやファンタジーでよく聞く「ダンジョン」はこのドンジョンに由来します。現在では地下迷路や地下牢獄を指す意味で使用されていますが、そもそもは主塔を示していました。
ではなぜ地下牢を意味する言葉となったのか。ドンジョン(すなわちキープ)には通常の居住空間のほか、旧来は囚人の収容施設としても使用されていたからです。
それがいつしか主塔内の牢獄がドンジョンと呼ばれるようになり、その収容が地下に移されても呼び名が変わらなかったため今の意味に至るのでした。
もっと言えばプロヴァンの塔は12世紀後半に獄房の集合体として設計されたと言われています(居住(トゥール・レジダンス)説もあり)。
また、キープと類似するものの起源が異なるものとして、ベルクフリート(ドイツ語で「高い城塔」)があります。
#br
-''囲郭式城郭''(12世紀以降)
山や平地で別々に進化し続けてきた城は、やがて12世紀ころには同じような構造を備えるようになります。
それが主城塔を中心にした主郭を城壁、塔、堀で囲んで防御した石造の城郭でした。主郭・内郭・外郭を城壁で囲んだことからこれを囲郭式城郭と呼びます。
現代に残る城の基本形とも言えます。
初期のものはイングランドではアーリーイングリッシュ様式とも呼ばれます。主城塔が独立して建つものと外城壁の一部として組み込まれているものに分けられます。
この時代には十字軍によってもたらされた中東のアラブ・イスラム勢力の築城&攻城技術を用いることも増えました。カタパルト・トレビュシェットなどの投石器が一例です。
城壁は兵の移動を円滑にするため、そして進化する攻城兵器に対抗して防御力を上げるためにどんどんぶ厚くなりました。
#br
-''集中式城郭''(13,14世紀)
13世紀ごろから登場した囲郭式城郭の進化形で、主郭を二重ないしそれ以上の城壁で囲ったものです。
モットやキープはほぼ消滅し、戦闘的な役割は主郭を囲む主城壁と主城門を守る城門塔(ゲートハウス)に集約されました。
居住空間は城門塔の内部に設けられたり、主郭の内側に居館が建てられることもありました。ある意味ではシェルキープ城郭へと先祖帰りしたとも言えます。
この様式の城郭はどの方向から攻められても二つ以上の方向から敵を攻撃できることが特色です。そのため城壁の要所には矢狭間、石落しなどを持つ塔が配置されました。
また外城壁よりも内城壁を高くし、二つの城壁から同時に城外の敵を攻撃できるように設計されていました。[[クラック・デ・シュヴァリエ]]は最初期のひとつに数えられます。
旧式化した城壁を改修し集中様式とすることも行われました。例えば[[ロンドン塔]]の集中様式は後代の改修によるものです。
イングランドではエドワード1世が大々的に採用した(→アイアンリング)ためにエドワード様式(エドワーディアン)とも呼ばれました。
#br
ゲートハウスの誕生は武器の進歩を見れば当然のことでした。
弩が弓矢に取って代わり、マンゴノーやトレビュシェットといった投石機の登場、城壁一枚の守りでは到底賄いきれず、最終防衛線を超えられたらあとは主塔のキープしか残されていません。
最悪の事態を想定した結果、城壁の進歩が反撃の自由度の低いキープを消滅させてしまったのです。また、このころから城壁そのものが城を意味するものとなりました。
#br
-''稜堡式城郭''(15,16世紀)
14世紀末から15世紀になると火薬がヨーロッパに渡来し攻城用の大砲が登場します。集中式城郭は、大砲で直接城壁や塔を破壊されると一気に弱体化してしまいます。
そこで直接城壁を撃たれないように、城壁のさらに外側に防御堡塁を増設するようになります。これを稜堡式城郭と呼びます。
稜堡の中には小銃壕や砲台が設けられていました。また堡塁の材料も石から土に変化します。石は直撃すると砕け散りますが土はまた盛れば済むからです。
初期の大砲は射程距離も長くなかったためある程度の大きさがあれば十分でした。
やがて堡塁が城壁に取って代わり外部防衛線を形成するようになります。大砲の射程と威力が増すにつれて、堡塁は城の主郭から外へ外へと広がっていきました。
城郭都市にも城壁の外に堡塁を持つものが現れ始めます。[[ウィーン]]は城壁と堡塁によってオスマン帝国による二度のウィーン包囲に耐えました。
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-''星型要塞''(17世紀以降)
稜堡式城郭からさらに死角を減らし、敵に対しては十字砲火を浴びせるために、稜堡の角を尖らせるようになります。
これが星型要塞と呼ばれるものとなり、築城術はここにひとつの頂点を迎えます。
時代が下ると火砲や機関銃で十重二十重に守られた要塞は難攻不落と化しました。そのような要塞を陥落させるために、塹壕や巨大な砲を用いた攻城術が発達します。
17世紀フランスの軍事建築家ヴォーバンは攻防両面で要塞に造詣の深い&color(Silver){チート};人材として知られています。
#br
-''近代の城''
戦うための城=要塞は、しかし住むためには使いづらく維持コストも莫大でした。また近代に入ると国内での武力衝突そのものが減ってきます。
そこで領主や貴族、あるいは王室の所有する城であっても戦闘を主目的にしない城館を新築したり古い城を改装したりする例が増えました。
ここでは城と呼びましたが、現在まで残る貴族の領地の「城」にはこの時代に館として建てられたものも多く、厳密には宮殿や館としたほうが良いかもしれません。
(というか各地の原語では『城』だけを指さないもの(例:シュロス、シャトー、パレス、ホール、ハウスなど)も一律に城と和訳していることがわりと多いので、特にWebで城情報を調べようとする時には注意が必要です。以上は完全に余談)
--''復古式城''
戦うことを考慮に入れていないが、(主に城主の好みによって)城の形をしている宮殿・城館です。
砕けた言い方をすれば見た目がかっこよければそれでいいので、当時の軍事技術を反映しているわけではありません。[[ノイシュヴァンシュタイン城]]はまさに好例といえます。
時代は違うものの[[ティンタジェル城]]などを入れてもいいかもしれません。
#br
-''マナーハウス''
本来は領主邸宅の意なのですが、そのときの情勢や地域の性格を背景に要塞化させたり、初めから防衛装備を施して築城された領主邸宅をマナーハウスと呼ぶようになりました。
[[アクトン・バーネル城]]やヤンワス・ホールは国境の境にあったため、[[エイドン城]]はイングランドとスコットランドとの戦争勃発で、付近が戦場と化したため50年をかけ要塞化されました。
とはいえ最初から城塞として建造されたものに比べると小規模でシンプルな構造なものがほとんどでした。

#endregion
**要塞のたそがれ [#r9b4e104]

 フランスが作ったマジノ線は、ほんの一部がドイツ軍と戦っただけですが、攻撃手段の発達にもかかわらずよく耐えました。唯一ラ・フェルテの砲兵陣地が落ちましたが、これは内部で火災が発生し、一酸化炭素中毒で守備兵が全滅したためでした。

 第2次大戦では、戦車の砲塔を地面に据えたり、戦車そのものを埋めたりして防御に優れた陣地を速成することがよくありました。これらはコンクリートと鉄で固められた要塞と違って、上から大口径の砲弾が降ってきたらあまり防御力はありませんでした。ドイツはPanzernestと呼ばれる、重さ1.4トンの鉄とコンクリートでできた可動陣地を工場で作り、馬車や自動車で現地に運び、穴を掘って埋めました。兵士2名が機関銃と銃弾5000発を持ってこもれる銃塔で、当時の説明書には「47ミリ戦車砲までははじける」と書いてありました。

 地下施設に対して有効な特殊爆弾をはじめとして、要塞を攻撃する手段が発達した結果、固定要塞は作られなくなってきました。とはいえ重要人物や確保したい地域がなくなるはずもなく、「所在を知られた要塞」が消えたと言うべきかもしれません。


**現実の城の数ってどれくらい? [#lb2a2aee]

日本の城だけでも2万5千から5万ほど存在したとされます。[[日本100名城>日本100名城#h71c22a7]]の候補に挙がった城だけでも478城あります。
また、海外にも[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]と呼ばれる城などがあり、ネタ切れの心配はないと思われます。
#br
ちなみに、数にかなり開きがあるのは、どこまでを一つの城と数えるのかという見解が城郭研究者の間でもまちまちだからです。
たとえば、[[真田丸]]をあくまで[[大坂城]]の一部と考えるのか、独立した一つの城として考えるのかといった問題があります。
また、史料に名前があるのみで遺構が見つかっていない、あるいは遺構があるのみで史料に名前がない城をカウントするか否かといった問題もあります。
要するに広い方に解釈すると5万ということになります。
**三大築城名人 [#m8ae34c1]

藤堂高虎、加藤清正、黒田如水(官兵衛)の三人がとりわけ優れた築城の名手として知られ、この3人をひっくるめて三大築城名人と現代では呼ばれています。
ただし、如水に関しては資料によってまちまちで、彼を省いて高虎、清正が二大築城名人として挙げられることもあります。
建築様式は清正、如水と高虎とで異なっており、前二者が「複雑化させた縄張りで侵入しにくくする」というものに対し後者は「深い堀と高い石垣で侵入を阻む」というものです。
また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞれの手がけた代表的な城に、[[熊本城]]、[[伊賀上野城]]があります。
**実際に行ってみたい! [#ode4efb7]

未実装城も含めて、いわゆる聖地巡礼をしてみたい場合は交通手段をよく確認するなど、しっかり事前準備をしましょう。
特に山城では熊が出没したり転倒・転落事故が発生したりすることもあり、実装城でも例があります。決められた登山道や案内係の注意を守りましょう。
動きやすい服装や靴にし、水分補給や汗拭きタオル、虫除けスプレー、暗くなりそうなら懐中電灯なども忘れずに。
#br
また、観光地化していない城跡で大声で騒ぐなど、付近の住民の迷惑となる行為は控えましょう。私有地でも管理者のご好意により立ち入ることができる場合もありますが、立ち入り禁止の場合は無断侵入にならないようにしましょう。
そのような城でのマナーや散策の仕方、禁止行為などについて調べるには、戦国史学者の西股総生氏の著作『土の城指南』という書籍がおすすめです。
**水城の定義について [#f90fc7cb]

歴史紀行作家の中山良昭氏の著作『オールカラーでわかりやすい! 日本の城』より引用。
>水城、海城には海面、湖面そのものを濠の代わりとしたり、海水、湖水を濠に引き込んで、防衛のために利用する側面と、港湾の監視と水軍、水運の監視と水軍、水運の管理という両面の目的があります。
<

**城の定義について [#f1f107b5]
城には役割に応じて本城・支城・出城・境目の城・つなぎの城などがあります。
本城;領域支配の中心となる当主の居城。安土・躑躅ヶ崎館・春日山など。いわゆる都道府県庁
支城:領域支配を行う時いくつかに分けて支配することがあり、その中心の城。北ノ庄・坂本・長浜など。いわゆる区市町村庁
出城:本城や支城を守ったり兵糧など別置のため少し離れた所や連結させて築いた城。真田丸など。いわゆる区市町村庁の支部や別館
境目の城:領土の最前線に築かれた城。そこから領土が広まれば支城になったりした。佐和山・山中など。いわゆる国境警備所
つなぎの城:本城や支城など緊急時のためのろし台や連絡人が詰めていた城。飛山など。いわゆる防災無線のスピーカー

*政治について [#u426efce]

**官位 [#q4ca19a1]

奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。
年2回の定期異動である除目は貴族の大きな関心事でした。
宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国時代になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。
#br
例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていました。
室町幕府の名門・斯波氏の家臣となった際に朝廷から与えられた官位を、長期にわたり勝手に世襲したものです。
足利義昭と一緒に上洛したとき、織田信長は弾正少忠の正式な補任を受け、最終的には正二位右大臣・右近衛大将まで進みました(死ぬ前にそれらを辞し、死んでからさらに追贈がありましたが)。
三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川氏の勢力を三河から追い出したタイミングでした。
このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。
#br
興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。
#br
「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。
ゲームに登場する侍従は従五位下、近衛少将は正五位下が原則でした。足利義昭とともに上洛した織田信長が最初にもらった位階が従五位下、柴田勝家を倒し徳川家康を破った羽柴秀吉がやはり従五位下から官位を始めています。
なお本ゲームには出てきませんが、従五位下より下にも官位はあります。ただ、貴族として扱われるのは従五位下からだったようです。
#br
儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。

#region("官位一覧")
|位階|主な官職|補足|h
|正一位&br;従一位|太政大臣||
|正二位&br;従二位|左大臣&br;右大臣&br;内大臣||
|正三位|大納言||
|従三位|中納言&br;左近衛大将&br;右近衛大将&br;太宰帥||
|正四位上|中務卿||
|正四位下|参議&br;式部卿&br;治部卿||
|従四位上|右大弁&br;左大弁||
|従四位下|修理大夫&br;左近衛中将&br;右近衛中将&br;太宰大弐||
|正五位上|左中弁&br;右中弁&br;左京大夫&br;右京大夫&br;太宰少弐||
|正五位下|左小弁&br;式部大輔&br;左近衛少将||
|従五位上|中務少輔||
|従五位下|少納言&br;侍従&br;式部少輔&br;修理亮|ここから上が殿上人|
|正六位上|左大史&br;右大史&br;中務大丞&br;左近衛将監&br;右近衛将監||
|正六位下|式部大丞&br;治部大丞&br;太宰大監||
|従六位上|式部小丞&br;治部少丞&br;修理大進&br;太宰少監||
|従六位下|左京大進&br;右京大進&br;修理少進||
|正七位上|中務大掾&br;式部大掾&br;左京少進&br;太宰大典||
|正七位下|左近衛将曹&br;左近衛将曹||
|従七位上|||
|従七位下|||
|正八位上|中務少掾&br;式部少掾&br;太宰少典||
|正八位下|左京大属&br;右京大属&br;修理大属||
|従八位上|左京少属&br;右京少属&br;修理少属||
|従八位下|||
#endregion
**大臣・納言・参議 [#h1aafb93]

平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。
ただし、当時すでに長男の平重盛が権大納言まで昇進していましたが。
のちに豊臣秀吉は大名たちに官位を大盤振る舞いしたこともあって、差をつけるためか太政大臣に長いこととどまりました。
#br
左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。
会議のメンバーとなったのが大納言、中納言、参議といった人たちで、公家の家格は摂政・関白になれる家を筆頭に、大納言までなれる家など細かく決まっていました。
その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。
#br
近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。
少し長官が格下で、御所内の区域と門を分担する左右の衛門府、兵衛府があり、武士の名前によくある「左衛門」「右衛門」といった呼称はここから来ています。
**五畿七道 [#vd2cb6c3]

五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。
||CENTER:現在|CENTER:国名|h
|CENTER:畿内|近畿地方中部|大和・河内・和泉(757年に河内から分離)・摂津・山背(794年山城に改称)|
|東海道|東海道地方及び関東地方(北部除く)|伊勢・志摩・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸|
|東山道|中部地方中部及び東北地方|近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽(712年に越後・陸奥から分離)|
|北陸道|北陸地方|若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡|
|山陽道|中国地方南部|播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門|
|山陰道|中国地方北部|丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・隠岐|
|南海道|近畿地方南部及び四国地方|紀伊・淡路・讃岐・阿波・伊予・土佐|
|西海道|九州地方|豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅(713年日向から分離)・対馬・壱岐|

また、明治2年(1869年)には北海道が新設されて五畿八道となりました。
|CENTER:現在|CENTER:国名|h
|CENTER:北海道|渡島・後志・胆振・日高・石狩・天塩・北見・十勝・釧路・根室・千島|
**国名・都道府県一覧 [#wba06641]
#region("長いので折りたたみ")
令制国の領域は時代により変化しているため、その議論は単純ではない。
ここでは一例として、現在広く用いられている明治元年における変更後の令制国の領域を示す。
国をまたぐ都道府県は着色

|>|国名|都道府県|補足|h
|陸奥|陸奥|CENTER:青森県|全域|
|~|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:岩手県|二戸郡|
|~|陸中|BGCOLOR(#9b4):CENTER:秋田県|鹿角郡|
|~|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:岩手県|二戸郡・気仙郡を除く|
|~|陸前|~|気仙郡|
|~|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:宮城県|下記以外|
|~|BGCOLOR(#ddd):磐城|~|伊具郡・亘理郡・刈田郡|
|~|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:福島県|浜通り全域と田村郡・石川郡・東白川郡・西白河郡|
|~|岩代|~|上記以外|
|出羽|BGCOLOR(#ddd):羽後|BGCOLOR(#9b4):CENTER:秋田県|鹿角郡を除く|
|~|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:山形県|飽海郡|
|~|羽前|~|飽海郡を除く|
|>|CENTER:安房&br;上総|BGCOLOR(#9b4):CENTER:千葉県||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:下総|~||
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:茨城県|八千代町以北の鬼怒川西岸以西と下妻市南部以南の小貝川西岸以西、&br;河内町東部と稲敷市の南東部|
|>|CENTER:常陸|~||
|>|CENTER:常陸|BGCOLOR(#9b4):CENTER:千葉県|栄町の一部|
|>|CENTER:下野|BGCOLOR(#9b4):CENTER:群馬県|桐生市桐生川以東|
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:栃木県|下記以外|
|>|CENTER:上野|~|足利市の一部|
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:群馬県|上記以外|
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:武蔵|~||
|>|~|CENTER:埼玉県|~|
|>|~|CENTER:東京都|~|
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:神奈川県|川崎市と横浜市の沿岸部より一帯|
|>|CENTER:相模|~|上記以外|
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:静岡県|熱海市の一部|
|>|CENTER:伊豆&br;駿河&br;遠江|~||
|>|CENTER:三河|BGCOLOR(#9b4):CENTER:愛知県||
|>|CENTER:尾張|~||
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:岐阜県|海津市の一部|
|>|CENTER:美濃|BGCOLOR(#9b4):CENTER:愛知県|豊田市の一部|
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:岐阜県||
|>|CENTER:飛騨|~||
|>|CENTER:信濃|~|中津川市の一部|
|>|~|CENTER:長野県||
|>|CENTER:甲斐|CENTER:山梨県||
|>|CENTER:越後&br;佐渡|CENTER:新潟県||
|>|CENTER:越中|CENTER:富山県||
|>|CENTER:能登&br;加賀|CENTER:石川県||
|>|CENTER:越前|BGCOLOR(#FCC):CENTER:岐阜県|郡上市の一部|
|>|~|CENTER:福井県||
|>|CENTER:若狭|~||
|>|CENTER:近江|CENTER:滋賀県||
|>|CENTER:丹後&br;山城|BGCOLOR(#9b4):CENTER:京都府||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:丹波|~||
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:大阪府|豊能町、高槻市の一部|
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:兵庫県||
|>|CENTER:但馬&br;播磨&br;淡路|~||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:摂津|~||
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:大阪府|~|
|>|CENTER:和泉&br;河内|~||
|>|CENTER:大和|CENTER:奈良県||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:紀伊|CENTER:和歌山県||
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:三重県|~|
|>|CENTER:伊勢|~||
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:愛知県|弥富市の一部|
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:岐阜県|海津市の一部|
|>|CENTER:伊賀&br;志摩|BGCOLOR(#9b4):CENTER:三重県||
|>|CENTER:阿波|CENTER:徳島県||
|>|CENTER:土佐|CENTER:高知県||
|>|CENTER:伊予|CENTER:愛媛県||
|>|CENTER:讃岐|CENTER:香川県||
|>|CENTER:備前|BGCOLOR(#FCC):CENTER:兵庫県|赤穂市の一部|
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:岡山県||
|>|CENTER:美作|~|~|
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:兵庫県|佐用町の一部|
|>|CENTER:備中|BGCOLOR(#9b4):CENTER:岡山県||
|>|CENTER:備後&br;安芸|CENTER:広島県||
|>|CENTER:周防&br;長門|CENTER:山口県||
|>|CENTER:石見&br;出雲&br;隠岐|CENTER:島根県||
|>|CENTER:伯耆&br;因幡|CENTER:鳥取県||
|>|CENTER:筑前&br;筑後|BGCOLOR(#9b4):CENTER:福岡県||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:豊前|~||
|>|~|BGCOLOR(#FCC):CENTER:大分県|~|
|>|CENTER:豊後|~||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:日向|CENTER:宮崎県||
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:鹿児島県|~|
|>|CENTER:大隅&br;薩摩|~||
|>|CENTER:肥後|CENTER:熊本県||
|>|BGCOLOR(#ddd):CENTER:肥前|CENTER:佐賀県||
|>|~|BGCOLOR(#9b4):CENTER:長崎県|~|
|>|CENTER:壱岐&br;対馬|~||

さて、御城プロジェクトREの時代設定の基盤となっている関ヶ原の合戦前後との違いであるが、
このころには、明治元年の領域に比較的近いものとなっているが、
江戸時代には江戸市域の拡大にともなう国境の変遷が存在したため、この一帯には大きな違いが存在する。
当初はかつての利根川の本流にあわせ、現在の東京都江東区や墨田区東部以東や葛飾区や埼玉県の中川・大落古利根川以東は下総国葛飾郡に属していたものが、
徐々に国境が東に移動し、最終的に明治元年に江戸川まで移動した形になっている。
それ以外にも、出羽と陸奥の国境が津軽藩と久保田藩の領土交換で変動したなど、細かい変動はあったものと考えられている。

また、それ以前の戦国時代の間にも国境の移動があったことが確認されており、
代表的なところでは、1586年の天正の大洪水によって、木曽川の流路が現在とほぼ同じものとなった後、
尾張と美濃の国境が現在の愛知・岐阜県境と同じ木曽川を境にするものと再定義された(ただし、一連の経緯については異説も存在する)ことがよく知られている。
これにより、元は現在の岐阜県を流れる境川と墨俣で合流した長良川下流部を境とした国境が大きく南に移動することとなり、
現在の岐阜県各務原市南部や笠松町、岐阜羽島市などにあたる領域が尾張から美濃へと移っている。
また、現在の茨城県久慈郡大子町一帯はかつては依上保と呼ばれ、陸奥国高野郡に属していたが、佐竹氏の支配下に入った結果、豊臣秀吉の差配により常陸国に移されたことが確認されている。

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**令制国(律令国) [#cdcff0e9]

尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。
信長は親族と争って次々に倒し、尾張全体を支配するようになりますが、こうした「国-郡」は大宝律令などによって定められた統治の仕組み、つまり律令制の一部です。
それ以前から「国」という言葉はあったのですが、国や郡の構成が律令によってルールとして決まり、以後長いこと変更されなかったので、令制国(律令国)と呼ばれています。
よく国の数を「六十余州」と表現しますが、そのように境界が固定されたわけです。
この令制国は戸籍・郵便等の地名表記から外されたことにより急速に廃れましたが、現在も法律上廃止されておらず、駅名や名物の名前などで残っています。
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郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。
もともと国司のもとに軍団があったのですが、中央からは源氏、平家と言った貴族系の武士団(武家貴族)があらわれ、国司の最高位者である守(ただし親王任国である常陸、上野、上総は守もあるが、名目上親王が守を勤めているため、実質介が最高位者であるが、決して守がないわけではありません)としていろいろな国に赴任し、地方の武士団と関係を結んで、武士が兵権を握るとともに、すっかり貴族から分かれてしまいました。
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鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。
さすがに戦国時代になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。
**一揆 [#z5fda424]

武家が団結して集団行為をすることです。(EUを想像するとわかりやすいかもしれません。)
勘違いされがちですが暴動を起こすことは一揆の中の土一揆であり、一揆=暴動ではありません。
農作業を放棄(ストライキ)して山へ逃げ込む農民もいます

有名なものは加賀一向一揆や長島一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆があります。

**石高 [#x599c9e1]

その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。
この量が多ければ多いほど、その土地、国は豊かであるといえましょう。
たとえば、当時最大の穀倉地帯であった加賀国は「加賀百万石」と称せられ、豊臣五大老のひとり、前田利家が預かっていた国として有名です。
*城娘のセリフ [#w99a6d9c]

**殿様 [#wf2b9c61]

「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。
「殿」という敬称も当初は摂政・関白に限られていたと言いますから、「殿下」に準じた使われ方であったのでしょう。
しかしどこの国でも敬称はインフレを起こすもので、「枕草子」にはすでに「大納言殿」「中納言殿」といった表現が見られます。
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平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。
また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。
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足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。
「殿様」はそれらの下の敬称として広く使われました。
「上様」も天皇などを指す言葉でしたが、徳川家康の家臣が日記の中で最盛期の織田信長を「上様」と表現しており、戦国時代には「殿様のその上の人」というニュアンスで使われることがあったようです。

**普請(ぶしん) [#ua65dd77]
「島普請だけじゃのうて穴太衆も呼ぼうでえ」「天下普請の城を侮るでない」、ゲーム内でも時折登場する台詞ですが普請とは一体何でしょうか。
平たく言えば土木工事における基礎工事を指します。実際に櫓を立てたり壁を設けたり御殿を立てたりする作業は「作事(さくじ)」と言い、普請には含まれません。
「城普請」と聞けば「建物として城を立てる」と思いがちですが、その実、塀・堀・石垣を築くことを意味し、あくまで建築は付属の扱いなのです。

**穴太衆(あのうしゅう) [#l63f1b25]
近世城郭で石垣は無くてはならない存在です。防衛においても要の要、ここが崩されると城の防備は一気に無力と化してしまいます。
そんな大事な礎の部分を任された石積み職人を通称「穴太衆(あのうしゅう)」といいますが、必ずしも近江の穴太を指すわけではありません。
俗説では朝鮮式石積み技術を持った高麗人(または百済人とも)が日本に帰化し、九州から本土へと移住の末、技術が伝来していったとされます。
石積み職人の技術を余すことなく発揮した最初の城郭は何といっても[[安土城]]でしょう。
比叡山の麓に住んでいた彼らは日頃より寺院の石積みを担当しており、その技術を買われ安土城の総石垣という大事業に参加しました。
「見せる城」安土城も石積み職人の力がなくては完成しなかったことでしょう。
**徳川御三家 [#c3e79e61]
「徳川御三家、紀州和歌山城、見参!」とあるように、徳川幕府成立後、[[和歌山城]]は紀州徳川家、[[名古屋城]]は尾張徳川家、[[水戸城]]は水戸徳川家という徳川御三家の城になりました。
これらの城は徳川美術館の見解によると、あくまで徳川将軍が城主であり、それぞれの藩主は城代であるとされますが、他に幕府直轄の城となった歴史がある城としては、[[江戸城]]、[[徳川大坂城]]、[[駿府城]]、[[二条城]]、[[水口城]]などがあります。
*妖怪について [#u0a10435]

妖怪とは、一般的に日本や中国などの東洋に古来から伝わる怪物の総称です。
様々な種類が存在しており、人間に対しては驚かせたりする程度のものから、命の危険が及ぶようなもの、逆に人間に何らかの幸福を招くようなものもいます。
その正体は妖怪ごとに色々ありますが、山彦などの当時まだ解明されていなかった自然現象、化け狐や猫又のような年老いた動物が不思議な力を得たとされる姿、はたまた土蜘蛛のように朝廷などの体制側にとってアウトローな人々(地方豪族、盗賊など)の暗喩である場合もありました。
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また、最もポピュラーな妖怪の一体である鬼は様々な解釈が存在し、魂という字に使われているように死者の霊を差すこともあれば、酒呑童子の伝説のように盗賊であることもあり、赤い肌に虎皮の腰巻きという風体から外国人の隠喩であるとも考えられています。
略奪を行う乱暴者というイメージが強いですが、上記の酒呑童子が罠にはめられた際に「鬼に横道なきものを」と叫んだこともあるように嘘や卑怯を嫌うという側面もあり、仏教においては仏法の守護者として信仰を集めていたりもします。

*コメント [#comment]
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