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雉岡城 の変更点

*現実の城情報 [#information] 

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雉岡城は、もともとは関東管領・山内上杉氏の居城として築かれたが、手狭であったために[[上州平井城]]へ上杉氏が移ったのち、家臣の夏目豊後守定基の居城となった。
雉岡城は、もともとは関東管領・山内上杉氏の居城として築かれたが、手狭であったために[[平井城]]へ上杉氏が移ったのち、家臣の夏目豊後守定基の居城となった。
この地が武蔵から上野へ至る交通の要衝であったため、平井城の前衛地点として重視されたが、北条氏康の四男・氏邦に攻略され家臣の横地忠春が城代をつとめることとなった。
1590年(天正18年)の小田原征伐では、前田利家率いる北国勢に攻められ落城した。
その後、徳川家康の関東入封後は松平清宗が1万石で配置されたが、清宗の子・家清が関ヶ原合戦の功績により[[三河吉田城>吉田城]]へ移封されたため廃城となった。
現在城址は「城山公園(雉岡城跡公園)」として整備されている。

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|埼玉県本庄市児玉町|
|現存状態|郭、空堀、土塁|
|城郭構造|平城|
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【伝承】

//題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。
//初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。

#style(style=padding-bottom:.5em;){{{
#style(class=submenuheader){{
&color(White,Maroon){夜泣き石(クリックで表示)};
}}
#style(class=submenu){{
本丸南側の郭の堀底に、「夜泣き石」と呼ばれる石がある。
児玉町に伝わる民話によると、城主の側女お小夜が、城主の奥方の怒りを買い、井戸に沈められ殺されてしまったと言う。
その時彼女は妊娠しており、死後、井戸や堀の水が乳色に濁り、夜な夜な赤子の泣き声が聞こえてくるようになったと言う。
井戸の底を攫ってみると大小二つの石が出て来たため、奥方は、お小夜とその子が姿を変えたものだと思い、彼女に対する仕打ちを後悔したと言う。
その後、親子石とも呼ばれた二つの石は堀瑞に祀られたと言う。
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}}

#style(class=submenuheader){{
&color(White,Maroon){姫塚(クリックで表示)};
}}
#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
神川町植竹における伝承によると、九郷用水に沿って村の東はずれまで来ると、姫塚と呼ばれる大きな塚がある。
永禄年間、北条氏に攻めたてられて上野に引き上げようとしていた時、一族には病弱な姫君がおり、皆、姫君の安否が気がかりでならなかった。
八幡山から藤岡に向って逃げのびようと、一族は植竹村まで来たが、姫はその林の中で息を引き取ってしまう。
一族は、姫君の為に近くにあった塚に墓を作り姫の霊を弔ったと言う。
}}
}}}

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


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