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鏡山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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鏡山城は周防・長門の大内氏が安芸進出の際に拠点とした山城である。
安芸・周防を拠点としていた大内氏は、室町中期以降豊前・筑前・石見・安芸へと勢力を伸ばし始めた。
そして、安芸における拠点として15世紀半ば頃に築かれたのが最初である。

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当時の安芸では半国守護である[[佐東銀山城]]の安芸武田氏を筆頭に、[[吉田郡山城]]の毛利氏、[[小倉山城]]の吉川氏、[[高山城]]の沼田小早川氏などの国人衆などがそれぞれ勢力を持っていた。
応仁の乱以降国人衆は互いに争うようになり、鏡山城もその中で安芸武田氏や沼田小早川氏などとの争奪があったことが記録されている。
その後も大内氏の安芸進出における重要な拠点の1つであったが、16世紀前半に出雲の尼子氏が安芸に進出すると、大永3年(1523年)に鏡山城も毛利氏などを従えた尼子氏の攻撃に晒されることになる。
城主である蔵田房信の活躍により尼子氏の攻撃は大きな損害を出すこととなったが、毛利元就が房信の叔父である直信を蔵田氏の家督を条件に寝返らせることに成功し、これによって落城、房信は城兵・妻子の助命を条件に自害した。
元就の活躍は鏡山城攻めの最も大きな戦功であったが、尼子氏は毛利氏に目立った恩賞を与えず、さらには寝返った直信を処刑したため、元就は面目を潰される形となった。
これは尼子経久らが元就に警戒感を抱いたためとされるが、結果、同年に毛利氏当主幸松丸が病死した際に家督継承に介入したことと含め、大永5年(1525年)に毛利氏が大内方に転じる原因の1つとなったとされている。
そして毛利氏が大内方になったことにより鏡山城は孤立し大内氏にあっさり奪還されてしまった。
時の大内氏当主大内義興は一連の戦から鏡山城の防御に不安を抱き、これに代わって北西の曽場ヶ城山に曽場ヶ城、さらにはその南に槌山城を築き拠点を移したため、鏡山城は廃城となった。
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城跡は現在鏡山公園の一部として整備されており、残っていた遺構である石垣、土塁、竪堀が保存されている他井戸も残されてる。
城跡は現在鏡山公園の一部として整備されており、残っていた遺構である土塁、畝状竪堀群が保存されている他井戸も残されてる。
平成10年(1998年)に国指定史跡となっている。
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|所在地|広島県東広島市西条町御薗宇|
|現存状態|石垣、堅堀、土塁など|
|現存状態|堅堀、土塁など|
|城郭構造|山城|
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