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金戒光明寺 の変更点

*現実の城情報 [#information]
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京都市左京区黒谷町にある寺院で、浄土宗七大本山の一つ。「こんかいこうみょうじ」と読む。
地元では「くろ谷さん」(くろだにさん)の愛称で呼ばれており、公式サイトのタイトルも「くろ谷 金戒光明寺」となっている。
城郭風の構造を持ち、幕末に京都守護職本陣として使用された。
公式サイトでは「新選組発祥の寺」を自称している。

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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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承安5年(1175年)にのちに浄土宗を開宗する僧侶・法然の草庵(白河の禅房)が結ばれ、それがこの寺の始まりとされる。
江戸時代初期、幕府により[[知恩院]]とともに城郭風の構造に改築された。
文久2年(1862年)に[[会津藩>会津若松城]]主・松平容保が京都守護職に任ぜられ、本陣として使用される。
藩兵1000名が交代しながら常駐していたが、人手不足により新選組を配下とすることになる(新選組はここではなく壬生屯所や[[西本願寺]]を屯所とした)。
慶応3年(1868年)に京都守護職が廃止されたため本陣ではなくなったが、その後の鳥羽・伏見の戦いにより亡くなった会津藩所属の人員の墓所となった(会津藩殉難者墓所)。
侠客・會津小鉄が子分を動員して戦死者を火葬し、金戒光明寺の塔頭である西雲院の住職とともに墓所を守ったという逸話がある。
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現在、高麗門には寺名とともに「奥刕會津藩松平肥後守様 京都守護職本陣 舊蹟」という聯がかけられている。
なお、京都守護職上屋敷は上京区に所在し跡地は京都府庁庁舎となっている。
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|所在地|京都府京都市左京区黒谷町121|
|現存状態|御影堂と大方丈を昭和30年代に焼失・再建|
|城郭構造|平山城風の寺院|

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