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角牟礼城 の変更点

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豊後清原氏を祖とする小田氏、魚返氏、森氏など玖珠郡衆と呼ばれる国衆が拠点とした城。玖珠盆地の北側、豊前と豊後の境目に位置する角埋山に築かれた要衝の城で、三方が切り立った断崖に囲まれた天然の要害。
『豊後国志』には久寿年間に源為朝が築いたとあり、また弘安年間に玖珠郡衆の森朝通が築いたともされるが定かではなく、史料上では『志賀文書』に「くすのつのむれ城」と記される文明7年(1475年)が初見となる。
玖珠郡衆は戦国時代には大友氏の属し、豊前と豊後の国境に位置する角牟礼城は境目の城として重視され、玖珠郡衆によって共同で管理された。天文3年(1534年)には古後中務少輔ら8名の玖珠郡衆宛に、大友義鑑が角牟礼城の新堀築城の書状を出している。
天正14年(1586年)、島津氏による豊後侵攻が始まり、玖珠郡に侵入した島津軍によって角牟礼城は翌年1月から3月にかけて攻撃を受けた。玖珠郡衆は森五郎左衛門らを中心に籠城戦を耐え抜き、島津軍を撃退した。

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文禄2年(1593年)に大友氏が改易されると玖珠郡衆も所領を失い、玖珠郡には毛利高政が入り角牟礼城を近世城郭に改修し玖珠郡支配の拠点とした。慶長6年(1601年)に高政が[[佐伯城]]に移ると玖珠郡には来島長親が入り、森藩が成立した。
長親は1万4000石の小大名だったため城を持つことが許されず、角牟礼城を放棄して山麓に森陣屋を本拠とした。角牟礼城は2代藩主通春の代までは存在したとされるが、やがて廃城となった。その後、角牟礼城があった角埋山は「御止め山」として藩の管理下に置かれた。
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角牟礼城は山頂部に本丸が置かれ、その南側に二の丸、三の丸が連なった。三の丸の東斜面には畝状空堀群が設けられ、戦国時代の山城の特徴を示している。
これらの曲輪には毛利高政によって石垣が築かれ、要所に横矢折れや櫓台の張り出しが確認できる。二の丸の大手門と伝わる外枡形も石垣で防御され、三の丸や水の手曲輪は曲輪全体が石垣で囲い込まれている。
水の手曲輪は谷を石垣でふさぐことで貯水機能を持ち、全長約100メートルに渡って築かれた石垣は高さが約5メートルにおよび、屈曲させることで横矢や食違虎口も設けられている。
このように角牟礼城は玖珠郡の拠点城郭であり、中世城郭から近世城郭への変遷を伝える城として重要で、平成17年(2005年)に国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|大分県玖珠郡玖珠町|
|現存状態|土塁、堀、石垣など|
|城郭構造|山城|

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