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茨木城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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国人領主の城館、摂津の守護所、そして織豊期の総構城郭という変遷をたどった城。御城プロジェクト:REでは[[有岡城]]の姉となっている。
茨木川左岸、大坂・京方面につながる三島路と丹波から南下してくる亀岡街道が交わる交通の要衝に築かれた。
歴史上最初に現れるのは国人の茨木氏の城館としてで、茨木氏は摂津守護細川京兆家の被官だったが、守護代薬師寺元長との対立に巻き込まれ文明14年(1482年)に茨木城を攻撃され没落した。
その後延徳2年(1490年)に細川京兆家の政元が「摂州井原岐」に下向した、あるいは「摂州在国、茨木辺居住」という記述があり、また明応2年(1493年)、同8年(1499年)、永正元年(1504年)にも茨木に滞在しており、茨木城は摂津支配の拠点となった。
文亀元年(1501年)には「薬師寺在所イハラキ」との記述から守護代薬師寺氏の在所でもあり、永正4年(1507年)には守護代復帰を狙う薬師寺万徳丸が茨木城を攻撃している。
このように茨木城は守護細川京兆家・守護代薬師寺氏の拠点であり、摂津の守護所として機能していたと考えられる。

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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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その後細川京兆家の拠点は[[芥川山城]]に移り、茨木城主には茨木氏が復帰したとされる。天文年間には茨木長隆が細川晴元に奉行人として仕え、永禄11年(1568年)の織田信長の畿内進出後は、茨木氏は足利義昭の家臣で[[高槻城]]主の和田惟政に与した。
しかし元亀2年(1571年)の白井河原の戦いで荒木村重が率いる摂津国人池田氏の軍勢によって惟政は討死し、茨木氏も没落した。この戦い後に茨木城には村重の息子村次が一時的に入った後中川清秀が入り、清秀は信長によって摂津国主に任じられた村重に属することとなった。
同じく村重に属した高槻城主の高山右近とは地域支配をめぐって対立していたが、天正6年(1578年)に村重が信長に対し謀反を起こし[[有岡城]]に籠城すると、清秀は右近とともに当初は信長に対抗したが降伏した。
清秀は信長から「御太刀拵の御腰物、并ニ御馬皆具」を拝領し、黄金三十枚も与えられるなど右近よりも厚遇された。また清秀の子長鶴丸(後の秀政)と信長の娘鶴姫との縁組が行われ、天正8年(1580年)に清秀信長から毛利攻めの後に「中国一両国」を与えると約束されるなど、信長に重用された。
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羽柴秀吉とも「兄弟之契約」を結ぶなど親密な関係を築いており、天正9年(1581年)に秀吉は茨木城に津田宗及らを招いて茶会を催している。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると清秀は秀吉に従って行動したが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで討死し、天正13年(1585年)には秀政が[[三木城]]へと移された。
以後茨木城は秀吉の直轄となり、御殿を建てて京・大坂間の往来に利用した。天正17年(1589年)には鶴松の出産を控えた茶々(淀殿)が、淀古城が完成するまでの間に茨木城に滞在している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は片桐且元が入り、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前には兄の且元も入っている。翌年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると片桐氏は大和の竜田藩と小泉藩に移り、また一国一城令で摂津の城は高槻城に定められたため茨木城は廃城となった。
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現在、茨木城の遺構はほぼ残っていないが、織豊期の総構構造は地名や絵図、地籍図などから明らかになっている。茨木城の総構は基本的には堀による囲郭であり、城下町のあり方とも合わせ、国人城館、守護所を継承した織豊期の畿内における城郭・城下のあり方を知る資料となっている。

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|所在地|大阪府茨木市片桐町|
|現存状態|なし|
|城郭構造|平城|

//題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。
//初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。
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&color(White,Maroon){茨木城のお姉ちゃんが饅頭をナイフで食べてたけど by 有岡城(クリックで表示)};
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//Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。
//***(題名を入力してください)

[[有岡城]]によれば、茨木城は饅頭をナイフで食べるとのこと。
これは『絵本太閤記』二編巻之禄六「荒木村重が餅を食らう」が元ネタとなっている。
曰く、荒木村重が織田信長に拝謁したおりに、信長から饅頭を刀に突きさして差し出されたという。
それを見て周りの者は青ざめたが、一方の村重は動ずることなく饅頭を平らげてしまった。
この豪胆さを賞して、信長は村重に摂津の国を任せたという。

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*コメント [#comment]
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