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英賀城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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英賀城(あがじょう)は播磨西部の港町として栄えた英賀に位置した平城であり、播磨三大城と呼ばれたとされているが、実際の城の規模等についてははっきりしていないところもある。
播磨西部に位置し、夢前川の河口に位置する英賀は中世には港町が形成され、瀬戸内の物流の一翼を担っていた。
当地には15世紀前半赤松祐尚が城を築いたとされている。これは、夢前川と水尾川に挟まれ、北に湿地帯が広がる守りやすい地形であったことが関係していると考えられる。
戦国期に入り赤松氏が衰退すると、伊予河野氏の支流とされる播磨三木氏がかわって当地を支配するようになった。
また、1515(永正12)年には本願寺8代宗主蓮如の門弟である空善が英賀本徳寺(英賀御堂)を開いたこともあり、英賀はその門前町としても栄えた。

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戦国期に入り、京に入った織田信長と石山本願寺が1570(元亀元)年に衝突を起こすと、英賀城主三木通秋は自身も本願寺門徒であったことから本願寺につき、織田氏についた小寺氏などと対立した。
毛利氏が本願寺の支援を始めると英賀は毛利氏の前線基地としても機能することとなり、1577(天正5)年には英賀に上陸した毛利勢と小寺勢が衝突し、小寺孝隆(黒田孝高)が策によって10倍の毛利勢を打ち破った英賀合戦も起こっている。
その後播磨を含めた山陽山陰方面には羽柴秀吉が派遣される一方、織田方であった別所氏が離反するなど、播磨は織田氏と毛利氏の最前線となり、三木通秋は毛利方として別所氏を支援している。
しかし、1579(天正7)年には備前の宇喜多直家が織田方に鞍替えしたため、播磨の毛利方は孤立し、翌1580(天正8)年、三木城の落城に続き英賀城も秀吉の攻撃により落城した。
しかし、1579(天正7)年には備前の宇喜多直家が織田方に鞍替えしたため、播磨の毛利方は孤立し、翌1580(天正8)年、[[三木城]]の落城に続き英賀城も秀吉の攻撃により落城した。
また、この際に英賀本徳寺は秀吉に寄進されていた亀山に移った(現在の亀山本徳寺)ため、戦火にさらされた英賀はそのまま衰退し、英賀城もそのまま廃城となった。

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城跡は現在英賀城址公園を含む一帯とされており、英賀神社の裏手には土塁が残されているが、周囲の開発の結果他にめぼしい遺構は残っておらず、住宅地の中にひっそりと本丸跡の石碑が建っている程度である。
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|所在地|兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町|
|現存状態|土塁|
|城郭構造|平城|
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