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若江城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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神功皇后の時代に大旱魃があり大般若経により農作物の被害を受ける危機から救われたことから、大般若経の「若」と清水の源という意味の「江」を合わせ名付けられたとされる地に築かれた。
築城年は弘和2/永徳2年(1382年)で、築城主は畠山基国である。当初は守護所として政治機能のみを持ったが、楠木正成の子・正儀と細川頼之を警戒、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神として防御機能が備わった。
文献上の初見は寛正元年(1460年)9月で、畠山義就が河内に下向した際に入った城が若江城だった。
西を大和川本流、東を大和川支流玉串川、北には古代に存在した河内湖の後身である勿入淵に守られた天然の要害であったが、そのために度々洪水の被害も受けている。
南には摂津から大和に至る十三街道と、河内の北部と中部をつなぐ河内街道が交差し、河内の水運・陸運を押さえる要衝でもあった。

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御霊合戦(上御霊神社の戦い)で畠山政長と畠山義就が家督問題のため争うと応仁の乱が始まり、文明9年(1477年)には政長の家臣・遊佐長直が守っていたが、義就に攻められ落城した。
これにより義就は名目上の河内守護である政長から河内を奪い、その後の河内十七箇所の戦いで日本史上初の水攻めを行なったが、このとき若江城にも水害が及んだという。
事実上守護を失った河内はその後は土一揆や国一揆が頻発、さらに畠山家の内紛による混乱もあって若江城の守備も強化されていった。
三好長慶が河内を支配すると、天正元年(1573年)には長慶の養子で反三好三人衆の三好義継が入っていたが、織田信長の命を受けた佐久間信盛の大軍により落城。
義継が妻子一族を自ら殺害し、自害したために三好宗家は滅亡し、義継を裏切った若江三人衆は信長から若江城を預けられ、若江城は信長が[[石山御坊]](石山本願寺)との戦いに利用したともされるが、やがて廃城となった。
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義継が若江城に入った時期だが、通説では永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を擁して上洛し、三好三人衆が没落したことで若江城が義継に与えられたのが通説となっている。
義継が若江城に入った時期だが、永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を擁して上洛し、三好三人衆が没落したことで若江城が義継に与えられたのが通説となっている。
しかし『多聞院日記』では三好義継に与えられたのは[[飯盛山城]]とあり、若江城に入ったとの記述は後世に書かれた『足利季世記』『重編応仁記』『甫庵信長記』に見られ、また永禄8年(1565年)以降の河内での三好三人衆方と松永久秀との戦いで若江城が登場しないことから、義継はこの時点では若江城には入っていないという説もある。
また義継が若江城に入ったとされる永禄11年(1568年)頃の若江は武家の関与が確認できず、一向一揆勢の拠点であったとされる。
しかし『二條宴乗記』には永禄13年(1570年)に久秀が若江に礼に向かったとの記述があり、その相手が義継だったと考えられている。
義継は信長から離反すると石山本願寺方につき、元亀3年(1572年)1月4日付の「本願寺坊官下間正秀書状」には「三好左京兆之城」の「若江」に信長方の軍勢が向かう準備を整えていたことが記されており、この時点で義継は若江城に入っていた。
以上が近年になって打ち出された説だが、通説となるまでには至っておらず、現在でも永禄11年(1568年)の時点で若江城主になったのが通説となっている。。

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|所在地|河内国若江郡|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平城|
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