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福平城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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忍術の流派の一つである戸隠流の地として知られる戸隠の南部、柵村と呼ばれた地域の中央部に位置する城。
戸隠山の南、鬼女紅葉伝説が残る荒倉山東麓で南北に連なる丘陵上に築かれた城で、東側は水田を、西側は溝状の地形をそれぞれ堀として利用し、丘陵斜面に空堀や土塁を設けた戸隠地域では最大規模の城となっている。
福平城の周囲には大築城、針立城、大昌寺城、円光寺居館という小規模な城館が福平城を取り囲むように配置されており、また半径3キロメートル以内には志垣城、根小屋城・古城、上祖山城など大小合わせて10以上の城砦もあり、福平城はこれらの戸隠地域の山城ネットワークの中心的存在だったと考えられる。

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戸隠地域は山岳修験の地として開かれた戸隠山顕光寺を中心に発展し、鎌倉時代に最盛期となったが室町時代に天台宗と真言宗の対立が激化し、天台宗の大先達宣澄が暗殺されるなど混乱し、衰退することとなった。
戦国時代に武田信玄と上杉謙信が北信濃をめぐって争い、戸隠地域もその争いに巻き込まれていった。弘治3年(1557年)に信玄が戸隠地域の東にある葛山城を攻略して戸隠に侵攻すると、戸隠山の衆徒は越後へ逃れた。その後謙信が反撃すると信玄は退き、衆徒は戸隠山へと戻った。
永禄元年(1558年)に信玄が戸隠山の中院で信濃支配の願文を捧げたのをきっかけとして謙信が戸隠山に出兵すると、衆徒は大日方氏を頼って筏ヶ峰に避難し戸隠一帯は破壊された。
その後天正年間前半には武田氏が戸隠地域を支配したが、武田氏の滅亡後は織田氏が支配し、天正10年(1582年)の本能寺の変後は上杉氏の支配下に置かれた。
このように戸隠地域は戦国時代になって支配者が度々変わり、福平城はその中で築かれ、改修が繰り返されつつ存続していたと考えられる。

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|所在地|長野県長野市戸隠栃原福平|
|現存状態|土塁、空堀など|
|城郭構造|山城|
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