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神指城 の変更点

*現実の城情報 [#information]
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慶長3年(1598年)に会津に転封された上杉景勝は、[[会津若松城]]が上杉領120万石の城下町を営むには手狭であったため、周囲が開けており阿賀川の水を利用できる神指原の地に本拠地を移転することを決定した。
慶長5年(1600年)、直江兼続を総奉行に本丸と二の丸からなる「回」字形の二重方形区画の城として築城が開始され、完成すれば会津若松城の二倍の大きさとなる巨城だったが、徳川家康による会津征伐が決定すると築城は中止された。
関ヶ原の戦い後に景勝は米沢へ転封となり、神指城は破却され未完成のまま放棄されることとなった。
慶長3年(1598年)に越後の[[春日山城]]から会津に転封された上杉景勝は、[[会津若松城]]が上杉領120万石の城下町を営むには手狭であったため、周囲が開けており阿賀川の水を利用できる神指原の地に本拠地を移転することを決定した。
慶長4年(1599年)2月には具体的な構想が練られており、慶長5年(1600年)2月10日に神指城の築城を命じ、3月には周辺にあった13の村が移転させられ、3月18日から直江兼続を総奉行に本丸の工事が開始された。
本丸の工事は6月1日まで行われ、二の丸の工事は5月1日から本丸と並行して行われ、完成すれば会津若松城の二倍の大きさとなる巨城だったが、築城は6月10日にいったん休止され、さらに徳川家康による会津征伐が決定すると築城は中止された。
関ヶ原の戦い後に景勝は[[出羽米沢>米沢城]]へ転封となり、神指城は破却され未完成のまま放棄されることとなった。

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昭和40年代に圃場整備が行われたため城跡は破壊されてしまったが、近年の調査によって良好な状態で遺構が残されていることがわかった。
神指城は本丸を中心にその周囲を二の丸が輪郭式に囲む、「回」字形の二重方形区画の城として確認できる。
本丸は北側が200メートル、西側が235メートルのほぼ方形の曲輪で、これを囲む土塁が当時の姿を残しており、その外側には幅約60メートルの堀が設けられた。
二の丸は北側が590メートル、東側が670メートルのやや南北に長い曲輪で、四隅に土塁が現存し、外側を幅約45メートルの堀が囲んだ。
当時はこの二の丸の外側にあった村も移転させられ、二ヶ所に門があったことから、城下町の建設も含めて築城が行われていたことがわかる。
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神指城は未完成の城ではあるものの、築城の期間が明らかになっていることから当時の築城技術や築城過程を知ることのできる城郭であり、上杉氏の築城や城下町建設の考え方がうかがえる貴重な城郭となっている。

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|所在地|福島県会津若松市神指町本丸|
|現存状態|石垣、土塁など|
|城郭構造|輪郭式平城|

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