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石田城 の変更点

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平安時代から江戸時代にかけて五島列島を支配した五島氏の晩年における居城で、福江城とも呼ばれる。
五島氏は平清盛の弟・家盛を祖とし、当初は宇久氏を名乗って戦国時代には五島列島全域を支配するようになり、天正15年(1587年)に宇久純玄が五島姓に改称した。
江戸時代には福江藩(五島藩)の藩主として五島列島を治め、当初の居城だった江川城が慶長19年(1614年)に焼失すると寛永14年(1637年)に石田陣屋が藩庁となった。
五島氏は幕府に新たな城の築城を願い出たもののなかなか実現せず、嘉永2年(1849年)にようやく築城が認められ、幕末の文久2年(1863年)に福江藩最後の藩主・五島盛徳が完成させた。

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福江川の河口に築かれた石田城は、現在は五島市の中心街に位置しているが、築城当時は三方を海に囲まれる海城だった。
幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えることを目的として幕府から建築を認められたこともあり、城内には台場(砲台)が設けられていた。
明治元年(1868年)の明治維新により幕藩制度は解体されたため、「日本最後の城」「日本一新しい城」とも称される。
明治4年(1872年)には廃城となり本丸が解体されたが、蹴出門は修復を重ねて現存しており、土塀の一部や石橋、自然石を積み上げた石垣も当時の面影を残している。
明治4年(1872年)には廃城となり本丸が解体されたが、大手門と裏門である蹴出門は修復を重ねて現存しており、土塀の一部や石橋、自然石を積み上げた石垣も当時の面影を残している。
二の丸の庭園は作庭時期が明確で、建物が一体となって保存され、現存例の少ない城郭内の庭園であることから、平成3年(1991年)に国の名勝に指定された。
また石田城は[[松前城]]とともに幕末の城郭として貴重なものであり、平成29年(2017年)には福江城として[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|長崎県五島市池田町|
|現存状態|庭園、櫓、門、塀、石垣、堀、土塁など|
|城郭構造|海城|
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