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石浜城 の変更点

*現実の城情報 [#g1a829fb]

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現在の浅草・千住近辺にあった城。武蔵と下総の国境の城だった。(国技館のある両国の地名はこのことに由来する)
浅草付近の隅田川(古利根川)右岸をかつて石浜と呼び、江戸氏の一族がここに館を構えて石浜氏を名乗ったとされる。
この館がやがて城と呼ばれるようになったか、あるいは別に城が築かれたかは不詳。川沿いの微高地に位置した平城と考えられる。
享徳の乱が始まるとその影響で千葉氏で内紛が起き、千葉氏嫡流千葉実胤と弟の自胤が落ち延びてきて扇谷上杉家に保護された。
実胤は石浜城主、自胤は[[赤塚城]]主になった。石浜城に千葉氏嫡流を匿ったことで、両上杉家は下総に介入する口実を得た。

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千葉兄弟は旧領奪回に向けて活動するが、下総を奪った千葉氏庶流は両上杉と対立していた古河公方軍を引き入れ抵抗。
そのため下総回復は叶わず、気落ちした千葉実胤は寛正3年(1462年)にわずか20歳で隠棲して城主の座を自胤に譲る。
自胤は当主の座こそ認められるが下総帰還は果たせず、武蔵に土着した武蔵千葉氏として扇谷上杉、次いで後北条の傘下に入った。
石浜城はその後も武蔵千葉氏の拠点のひとつだったが、城址については石浜神社と待乳山聖天の付近の二説があり確定していない。
前者がやや有力とされるが、度重なる洪水・都市化による開発・戦災その他によって遺構は今に至るも発見されていない幻の城である。
当時の隅田川は石浜付近から下流は河口に向かって分流が多く、現在の本所・深川地域は三角州が作る湿地帯だった。
そのため軍勢が下総方面に向かうには石浜から対岸に渡るのが近道であった。
石浜城があった付近に残る台東区の地名「橋場」はこの場所に太田道灌が橋をかけて下総を攻めたことに由来するとされている。

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|所在地|東京都台東区または荒川区|
|現存状態|未発見|
|城郭構造|不詳|

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