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石川城 の変更点

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南部氏中興の祖で[[盛岡藩>盛岡城]]の基礎を築いた南部信直の実父・石川高信の居城として知られ、大仏ヶ鼻城とも呼ばれる。
南北朝時代に曽我道性によって築かれたとされ、戦国時代になった南部氏が支配するようになった。
石川城には石川高信が入って津軽地方を統治し、本家である三戸南部氏の領国支配を支えた。
城は平川の西岸、比高約60メートルの尾開山に築かれ、主郭の北東斜面には腰曲輪を伴うニの郭、三の郭が階段状に配置され、北西に続く丘陵地帯には12の館が並び、石川城と合わせて「石川十三楯」と称される。
南部氏中興の祖で[[盛岡藩>盛岡城]]の基礎を築いた南部信直の実父・石川高信の居城として知られる。
南北朝時代に曽我道性によって築かれたとされ、戦国時代になって南部氏が支配するようになった。石川城には石川高信が入って津軽郡代として津軽地方を統治し、本家である三戸南部氏の領国支配を支えた。
石川城の東端に位置し、最も重要な曲輪である大仏ヶ鼻城は平川の西岸、比高約60メートルの尾開山に築かれ、主郭の北東斜面には腰曲輪を伴うニの郭、三の郭が階段状に配置され、北西に続く丘陵地帯には12の館が並び、大仏ヶ鼻城と合わせて「石川十三楯」と称され、これらが総称して石川城と呼ばれる。
また石川城は石川館として南北朝時代の文献史料に記載のある城館とも重複すると考えられており、南北朝時代から戦国時代にかけて各曲輪がどのように機能し変遷していったのかも考慮する必要がある。
そのなかでも大仏ヶ鼻城は直下を平川が流れ、南へと続く羽州街道を押さえ、北には津軽平野が広がる交通の要衝に立地し、石川城において最も重要な役割を担っていたことは間違いない。

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津軽地方の中心的城郭として機能した石川城だったが、元亀2年(1571年)に大浦為信(のちの津軽為信)によって落城し、高信は自害したとされる。
高信を失った南部氏は津軽地方における影響力を急速に失い、為信の津軽制圧を許すこととなった。
以後石川城は津軽氏の支配下に置かれ、[[高岡城]]が築城されると廃城となった。
このように南部氏による津軽地方支配の中心的城郭として機能した石川城だったが、元亀2年(1571年)に大浦為信(のちの津軽為信)によって落城し、高信は自害したとされる。
この時為信は[[堀越城]]から出撃したが、堀越城は石川城から北西にわずか4キロメートルの地点に位置しており、為信にとっては南部氏に対するまさに最前線だった。
高信を失った南部氏は津軽地方における影響力を急速に失い、家中の分裂もあって為信の津軽制圧を許すこととなった。
以後石川城は津軽氏の支配下に置かれ、[[鷹岡城>高岡城]](のちの[[弘前城]])が築城されると廃城となった。

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|所在地|青森県弘前市石川|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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