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真里谷城 の変更点

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上総の戦国大名真里谷武田氏の主城として知られる、上総を代表する山城の一つ。読みは「まりやつ」または「まりがやつ」。
享徳3(1455)年、古河公方足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立が頂点に達して享徳の乱が勃発。成氏は憲忠を謀殺して関東を転戦し[[古河>古河城]]に移る。
成氏は管領上杉氏の地盤切崩しを図って上杉氏の領国・上総に武田信長を、安房に里見義実を派遣し両国を平定・領国化させる。
真里谷城は庁南城(長南城)とともに康正2(1456)年から長禄2年(1458年)頃の上総平定の間か平定後に築かれ、上総武田氏の居城となった。
現在は一部が少年自然の家やキャンプ場として改変されているものの、大枠では中世山城の遺構をよく残しており貴重なものとなっている。

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真里谷城の特徴としてまず立地が挙げられる。城は交通の要所からも農作物の生産拠点や大きな町場・集落からも離れた山間部に築かれている。
これは上総武田氏が他国から侵攻した立場で、それゆえに国人領主や隣国の動向を警戒しなければならなかったことから来たものだった。
もう一つの拠点である庁南城は比較的平地に位置していることから、対する真里谷城は「詰めの城」的な性格を持つともされる。
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上総を制圧した後、武田信長は嫡男信高を庁南城に置き自らは真里谷城に入った。信長の死後に信高の次男・信興が城主となり、真里谷家を名乗った。
真里谷家は信興の孫・真里谷恕鑑(信清または信保)の代に小弓公方足利義明を擁立し、その元で房総管領を自称するなど最盛期を迎える。
しかし恕鑑が没すると後継者争いで家中が分裂、真里谷信応が足利義明と真里谷全方の支持のもと庶兄信隆を追放して真里谷城に入り当主となる。
信隆は北条氏綱に庇護され、氏綱が国府台合戦において足利義明を戦死させ小弓公方体制を崩壊させると当主に復帰する。
信隆は本拠を交通の便に優れ北条方の勢力圏に近い[[椎津城]]に移し、真里谷城には一族衆が入って支城となったとされる。
このころ家中の分裂と混乱に乗じて南の[[久留里城]]や[[大多喜城]]が安房里見氏に攻め落とされており、真里谷城はむしろ前線の城になっていった。
このころ家中の分裂と混乱に乗じて南の[[久留里城]]や[[小田喜城]]が安房里見氏に攻め落とされており、真里谷城はむしろ前線の城になっていった。
その後真里谷家は北条体制下で里見との抗争の最前線に立ち、真里谷城・椎津城共に何度も里見勢の攻勢に晒されている。
最後は小田原征伐のときに他の房総半島の諸城と共に陥落し、その後廃城となった。(なお、それ以前に廃されていたという説もあり)
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南北に延びる尾根上に、大手口から本丸までのルートとそれを防御するような形の曲輪群が連なる形の山城。東西400m、南北700mほど。
最高所の千畳敷と呼ばれ大土塁に囲まれる長方形の郭が本丸で、その周りを取り巻くように主郭と一体になった腰曲輪群が形成されていた。
大手口に向かって下っていくと南西に張り出した支尾根に二の郭、西の支尾根に三の郭が構えられ、北に出城に近い形の四の郭があった。
三の郭と四の郭の間の谷間に大手口があり、二方向からの攻撃を受けながら登る形になる。また主郭南側の尾根上に搦め手道が通っていた。
これらの曲輪群は時代の変遷と共に増設されていったものと考えられている。

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|所在地|千葉県木更津市真里谷|
|現存状態|曲輪、枡形虎口、空堀、土塁、井戸など|
|城郭構造|山城|
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