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白地城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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四国統一を進めた長宗我部元親が四国経営の一大拠点とした城で、西阿波では最大規模を誇る城郭。
土佐から阿波に北流する吉野川左岸、標高153メートルの河岸段丘上に築かれた白地城は四国のほぼ中央部に位置し、阿波から土佐・伊予・讃岐の三方面へ向かう交通の要衝を抑える重要な役割を担っていた。
白地城の始まりは、鎌倉時代末期に西園寺氏の荘園である田井ノ庄の荘官として京から派遣された近藤氏が、建武2年(1335年)に構えた荘官館とされる。近藤氏はその後大西氏に改姓して土着した。
建武3年(1336年)に足利尊氏が阿波に細川顕氏・和氏を派遣すると、大西氏は大西城の小笠原氏とともに南朝方として戦い細川氏に対抗したが、興国4年・康永2年(1343年)に細川氏の支配下に入った。
以後大西氏は小笠原氏の被官となり、やがて小笠原氏が三好氏に改姓して[[勝瑞城]]に移ると、大西氏は大西城も支配するようになり西阿波で勢力を拡大していった。

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戦国時代の大西氏当主である大西頼武は三好長慶の妹を娶って三好氏との結びつきを強め、その長男の覚養は土佐長岡郡立河、伊予宇摩郡関山、讃岐豊田郡七邑と、四国中央部に進出した。
天正4年(1576年)に土佐の長宗我部元親が西阿波に侵攻し、覚養は弟の頼包を人質として差し出し一時は和議を結んだ。しかし三好氏が元親と対立したため覚養は元親に反旗を翻し、これに対して元親は天正5年(1577年)に白地城の支城である田尾城を攻め落とし、白地城にも迫った。
覚養は讃岐の麻城へと逃亡し、畿内から戻っていた頼武も自害したため白地城は落城し、以後の白地城は長宗我部氏による四国経営の拠点として機能した。
『元親記』では元親が羽久地(白地)に新城を築いたと記されており、白地城は長宗我部氏によって大規模な改修が行われたと考えられる。

天正13年(1585年)に羽柴秀吉による四国征伐が始まると、長宗我部氏は白地城に本陣を置いてこれを迎え撃ったが敗れ、土佐へと撤退した。
四国征伐後、阿波には蜂須賀家政が入って[[一宮城]]、次いで[[徳島城]]を居城とした。そして阿波各地の城を「阿波九城」として徳島城の支城に位置づけたが、三好郡の城は白地城ではなく大西城が選ばれたため、白地城は廃城となった。

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|所在地|徳島県三好市池田町白地|
|現存状態|土塁、堀切、切岸など|
|城郭構造|山城|

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