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猿掛城 の変更点

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猿掛城は、現在の倉敷市から矢掛町にまたがる猿掛山に築かれた山城である。
その歴史は平安時代末期に遡り、武蔵国を中心として勢力を伸ばしていた、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭・庄家長が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことが始まりとされている。
以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となり、南北朝時代初期には、南朝の北畠親房に属して足利尊氏配下の高師直と戦火を交えることとなる。
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天文2年(1533年)、当時の城主・庄為資は、[[松山城>備中松山城]]の上野頼氏を攻め滅ぼし、備中半国を配下に収めて松山城に移り、猿掛城には一族の穂田実近が入った。
天文22年(1553年)、尼子氏と結んでいた庄氏と備中にて覇を争っていた[[鶴首城]]主・三村家親は、毛利氏と手を結び猿掛城を攻略し、家親の長男元祐を穂田実近の養子として猿掛城主に据えることで為資と家親は和睦をした。
永禄11年(1568年)、備中に侵攻した宇喜多直家に為資の子・庄高資が呼応したため、一時猿掛城を落とされ、これに危惧を感じた毛利元就に遣わされた四男元清により猿掛城は奪取される。
この年、毛利氏の援軍により家親の子の元親が高資を追い落とし、松山城主となって備中に覇を唱えることとなった。
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天正2年(1574年)、元親が織田信長と結んだことで毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こるが、天正3年(1575年)5月、松山城の陥落によって備中兵乱は終結し、元親は自刃をした。
この時の戦功と愁訴によって元清は、備中国小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられ、猿掛城を預かることとなった。
元清は、それまでの居城であった[[安芸桜尾城>桜尾城]]を妻の御北尾と九弟の才菊丸に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。
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天正10年(1582年)の羽柴秀吉による[[高松城>備中高松城]]水攻めの際に、猿掛城は毛利輝元の本陣となり、本清は、天正11年(1583年)に城の西部にある茶臼山に[[中山城]]を築いて移り、猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた。
天正17年(1589年)、[[広島城]]の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになった。
慶長5年(1600年)、毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて敗将となったため、防長2国に大幅に減封され、城の周辺は幕府領となり猿掛城は廃城となった。
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|所在地|岡山県倉敷市真備町|
|現存状態|郭、石垣、土塁、堀|
|城郭構造|連郭式山城|

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