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深沢城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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駿東郡北部、相模・駿河・甲斐の国境近くに位置する境目の城で、後北条氏と武田氏による争奪戦が繰り広げられた城。
永禄12年(1569年)6月16日付けの北条氏康・氏政父子の書状で「深沢新地」とあることから、この年に後北条氏によって築かれたと考えられる。
当時この地域は甲相駿三国同盟を破って駿河に攻め込んだ武田信玄に対し、駿河を追われた今川氏真を擁する氏康・氏政父子が反撃し、軍事的緊張が高まっていた。
後北条氏は深沢城を武田氏に対する最前線として重視し、宿老の松田憲秀が小田原衆を率い、また氏康の義弟で[[玉縄城]]主の北条綱成が玉縄衆を率いて在城し、武田氏に備えた。

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しかし同年中に信玄は再び駿東郡に侵攻して深沢城を包囲し、綱成らは抵抗するものの「深沢矢文」による降伏勧告を受け、氏政は[[小田原城]]を出陣して救援に向かったものの支え切れず、降伏勧告を受け入れて開城した。
深沢城を失ったことで[[足柄城]]が後北条氏の最前線となり、深沢城から退去した綱成が在城した。
また足柄城と興国寺城などとの連絡を密にするため平山城を取り立て、こちらには深沢城から退去した憲秀が入っている。
また足柄城と[[興国寺城]]などとの連絡を密にするため平山城を取り立て、こちらには深沢城から退去した憲秀が入っている。
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以後深沢城は武田氏の城として後北条氏に対する拠点となり、この頃に武田氏の城に特徴的な丸馬出や三日月堀が設けられた。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると深沢城は後北条氏の攻撃を受けて自落し、再び後北条氏の手に渡った。
その後駿河を領有した徳川家康が支配することとなり、小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると重要性を失い廃城となった。

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|所在地|静岡県御殿場市深沢|
|現存状態|丸馬出、三日月堀など|
|城郭構造|平山城|

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