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海津城 の変更点

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松代藩真田氏の居城である[[松代城]]の前身にあたる城。川中島平全体を望む戦略上の重要拠点として、北は千曲川・残る三方は山で囲まれる要害の地に築かれ、武田氏の築城技術の特徴である丸馬出や三日月堀が備えられた。
築城年は天文22年(1553年)に山本勘助が築いたという記述もあるが、永禄3年(1560年)の書状に「海津在城」の記述があることから、この頃に築かれたというのが定説となっている。
築城当時の姿に関しては、後世になって書かれた書物に「二の郭」との記述があるが、一方で主郭を土塁と堀が囲む程度の規模だったとも伝えられており、詳細は明らかでない。
城代は武田信玄の重臣である春日虎綱(高坂昌信)が務め、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは海津城をめぐる駆け引きが一つの焦点となった。
武田氏の滅亡後は織田信長の家臣森長可が入り、本能寺の変後は上杉景勝が接収、景勝の会津転封後は豊臣政権の田丸直昌が入った。
武田氏の滅亡後は織田信長の家臣森長可が入り、反発する一揆勢を鎮圧して撫で斬りにし、国衆の妻子を海津城に人質として確保するなど苛烈な支配を行った。
しかし本能寺の変により一転して窮地に立たされた森長可は、海津城の人質を盾にして森軍は北信濃を撤退する。
その後上杉軍が接収し、景勝の重臣である須田満親が城将として北信四郡を支配する。
満親はかつて武田軍の北信進出により居城を追われて越後へと逃れた武将であり、景勝の会津転封が決まった際には息子である須田長義に家督を譲った後、その年に海津城で急死(自刃とも病死とも言われる)している。
景勝の会津転封後は豊臣政権の田丸直昌が入った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は森忠政の居城となり、海津城は「待城」へと改称された。

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|所在地|長野県長野市松代町松代|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|輪郭式平城|
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