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河後森城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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伊予と土佐の国境付近に築かれた境目の城で、築城年代は不明。嵯峨源氏融流初代・源融の子孫であり、頼光四天王の筆頭として知られる渡辺綱を祖とする渡辺氏が建久7年(1196年)に入城し、以後は河原淵殿と称された渡辺氏代々の居城となった。
渡辺氏は天文年間の渡辺政忠の代で西園寺氏の配下となり、土佐の一条氏から養子として迎えられた渡辺教忠は西園寺十五将の筆頭として1万6500石を領した。しかし教忠は永禄10年(1567年)の一条氏による伊予侵攻の際に積極的に戦わなかったことで、河後森城は西園寺勢に包囲された。教忠は人質を出して降伏したが、重臣の芝政輔・源三郎父子によって城を追われた。
天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国平定の際に河後森城が所在する宇和郡は小早川氏の所領となり、天正15(1587年)に宇和郡を領し[[地蔵ヶ岳城>大洲城]]に入った戸田勝隆は源三郎を河後森城から追放した。
その後は文禄4年(1595年)に[[板島丸串城]](後の[[宇和島城]])に入った藤堂高虎の所有となり、慶長9年(1604年)に河後森城の天守は宇和島城へと移築され月見櫓となったという。
慶長13年(1608年)に宇和島城に入った富田信高も河後森城に城代を置き、慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男・秀宗が宇和島に入封した際には付家老の桑折氏が河後森城を居城とし、翌年に一国一城令によって河後森城は廃城となった。

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河後森城は四万十川の支流である広見川と、その支流である鰯川・堀切川に囲まれた標高171メートル、比高88メートルの独立丘陵上に築かれた。最高所の本郭を中心として西側には西第二曲輪から西第十曲輪までの9つの曲輪が、東側には東第二曲輪から第四曲輪に加えて古城部分の4つの曲輪を含めた7つの曲輪が、さらに南側には新城と称される曲輪群が連なっている。
これらが山の稜線に沿って馬蹄形に展開し、中央部の風呂ヶ谷と称される谷部を囲んでいる。東側の曲輪群と古城とは堀切で区切られ、古城の各曲輪間にある切岸は非常に険しくなっており、南側の新城は曲輪が階段状に配置された。これらの曲輪は個々の規模は小さく、土塁や堀切はほとんど無く自然地形をそのまま利用していた。
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そのなかで本郭の周囲には織豊系城郭の特徴を示す遺構や遺物が多く発見され、特に本郭西南部の虎口は中世期の堀切が改変されて石垣が構築されている。石垣は本郭の南東部にも一部に見られ、また本郭や西第二曲輪と西第三曲輪との間の堀切では瓦が大量に出土し、その多くが[[聚楽第]]で出土した金箔瓦と同様のものであった。そのため聚楽第が築かれた天正14年(1586年)以降の戸田勝隆時代あるいは藤堂高虎時代に河後森城は近世城郭として改修されたと考えられている。
また、この時代の河後森城は支城であったことから、近世城郭への改修が城域全体でなく本郭周辺の一部分に留まっていることが特徴といえる。
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河後森城は伊予と土佐との国境の境目の城として重視され、戦国時代から江戸時代初期にかけて大規模な城郭へと発展した過程を示す遺構が良好に残っていることから、平成9年(1997年)に国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|愛媛県北宇和郡松野町松丸|
|現存状態|土塁、堀、石垣など|
|城郭構造|山城|

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