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桑原城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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諏訪大社の大祝を代々務めてきた名族、諏訪惣領家滅亡の舞台となった城。諏訪氏の本城である[[上原城]]の支城として、諏訪盆地を囲む山々に築かれた山城の1つであり、上原城からは北西約2キロメートルに位置する。
霧ヶ峰から延びた尾根上に築かれ、山頂に主郭と二の郭が置かれその間は深い堀切で分断されている。また二の郭には曲輪内部のものとしては珍しく、堀切が設けられている。
主郭と二の郭の周囲には土塁や切岸、帯曲輪などがめぐるが、そこから放射状に延びる尾根には北東方向には堀切など複雑な防御機構があるものの、全体的には簡素な構造となっている。
山頂からは南東に上原城を確認でき、諏訪湖から諏訪大社上社にかけての諏訪盆地一帯を見渡すことができる。

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桑原城の築城年代は不明だが、『守矢満実書留』によると文明15年(1483年)に起こった諏訪惣領家と諏訪大祝家との内紛の際、諏訪大社下社大祝の金刺興春が[[高嶋城]]を攻略し、さらに桑原に侵入し「高鳥屋城」に入城したという。この高鳥屋城は桑原城のこととされ、この頃には築城されていたと考えられる。
惣領家と大祝家の内紛を収めたのが諏訪氏中興の祖とされる諏訪頼満で、諏訪地方を統一した頼満は甲斐の武田信虎と度々戦った。
信虎の子である晴信(信玄)は諏訪惣領家と大祝の地位を狙っていた諏訪氏一族の高遠頼継と結び、天文11年(1542年)に諏訪へと侵攻した。当時の諏訪惣領家当主は頼満の孫である頼重で、居城の上原城を焼き払って桑原城へと撤退し籠城した。
神長官の守矢頼真の書留によると、頼重が戦況を確認するため城外に出たのを降伏したと勘違いした城兵が次々と逃亡し、頼重が桑原城に戻った時には一族が20人ほどだったという。こうして籠城を続けられなくなった頼重は降伏、のちに自害させられ諏訪惣領家は滅亡した。
その後諏訪は武田氏が支配し、諏訪氏の本城だった上原城には郡代が置かれて支配拠点となり、やがて高嶋城に拠点が移された。この頃に桑原城が用いられた形跡は無いため、諏訪惣領家の滅亡とともに廃城になったと考えられる。

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|所在地|長野県諏訪市四賀桑原|
|現存状態|土塁、堀切など|
|城郭構造|山城|

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