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松尾城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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[[四稜郭]]のキャラクリック台詞で言及される城。
甲斐源氏の加賀美氏の流れをくむ名族で、弓馬・礼法の流派として名高い小笠原流でも知られる小笠原氏の嫡流、信濃小笠原氏のうち松尾小笠原氏が居城とした。
信濃の南部に位置する伊那郡伊賀良荘に築かれ、天竜川が形成した段丘の突端に立地している。段丘の先端に主郭が置かれ、その背後に延びる尾根は横堀と竪堀が組み合わさった大小三条の堀が設けられた。
南側の尾根には腰曲輪が置かれ、台地側にあたる北側は巨大な空堀が横堀・竪堀となって西側へとつながり、二の郭と隔てられた。
二の郭は広大な曲輪で、南側が高くなっており段差によって複数の曲輪に分けられる。二の郭の西側には三の郭が置かれ、この範囲が松尾小笠原氏時代の城域であったと思われる。
松尾城の南には毛賀沢川が流れ、この川を挟んだ対岸には同族の鈴岡小笠原氏が居城とした[[鈴岡城]]があり、現在は遊歩道でつながっている。

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小笠原氏は鎌倉時代に甲斐から信濃へと本拠を移し、元弘4年・建武元年(1334年)に信濃守護となった小笠原貞宗が守護所として松本平に井川館を築いた。
その後応永7年(1400年)の大塔合戦に敗れ一時没落したが、小笠原政康が永享12年(1440年)の[[結城合戦>結城城]]で武功を挙げて再興した。
政康が死去すると小笠原氏の惣領と信濃守護職は子の宗康が継いだが、これに政康の甥にあたる持長が兵を挙げ宗康は討死した。
宗康の弟である光康は幕府から信濃守護職の継承を認められたが、幕府の管領が細川氏から畠山氏に移ると宝徳3年(1451年)に持長が信濃守護職とされた。その後再び細川氏が管領となると享徳2年(1453年)に信濃守護職も再び光康のものとなった。
その後持長の子の清宗が[[林城]]に移ったことでこの系統は府中小笠原氏と呼ばれ、伊那郡松尾を本拠とした光康の系統は松尾小笠原氏と呼ばれている。そして宗康の子の政秀は叔父の光康を頼って鈴岡城を居城とし、この系統は鈴岡小笠原氏と呼ばれる。
松尾城が築かれたのは、小笠原氏の内紛が深まっていたこの頃のことと考えられている。
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こうして三家に分裂した小笠原氏のうち、父を殺された鈴岡小笠原氏の政秀は府中小笠原の長朝と激しく対立し、一時は長朝を府中から追放したがのちに和睦し鈴岡に戻った。
やがて政秀は自身を保護してくれた光康とも対立するようになり、文明10年(1478年)と文明12年(1480年)に諏訪氏とともに松尾小笠原氏を攻撃したが、明応2年(1493年)に政秀父子が松尾城で暗殺され、鈴岡小笠原氏は没落した。
松尾小笠原氏の定基は鈴岡小笠原氏を抑えて伊那郡伊賀良荘の支配を確立し、永正3年(1506年)に北条早雲から遠江への出兵を求められるなど南信濃の有力者と目されたが、天文3年(1534年)に府中小笠原氏の長棟によって松尾城を落とされ、甲斐の武田信玄の下へと逃れた。
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天文14年(1545年)、長棟の子の長時は上伊那の福与城を巡って信玄と対立し、天文17年(1548年)には信玄に敗れた。
天文23年(1554年)になると信玄は下伊那へと侵攻し、松尾小笠原氏の信貴と信嶺はこれに従って松尾城を奪還し、伊那郡に復帰した。
信貴・信嶺の「信」は信玄の偏諱を与えられたものとされ、両名は武田氏の信濃先方衆、山県昌景の相備として活躍した。
元亀3年(1572年)に信玄が遠江・三河へと侵攻した際に信嶺は[[長篠城]]に在番し、さらに遠江の[[井伊谷>井伊谷城]]を与えられている。
武田勝頼が長篠の戦いで織田信長・徳川家康に敗れると伊那郡では武田派・織田派に分かれた国衆同士の抗争が激化し、天正10年(1582年)1月に鈴岡城と松尾城が落城した。
信嶺は弟の長巨を差し出して信長に従属し、同年2月14日には信長の甲州征伐軍の先陣を伊那郡に招き入れ、さらに[[高遠城]]攻めでは先陣を務めた。
[[本能寺の変>本能寺]]での信長の横死後に伊那郡を支配したのは家康で、当初は下条氏が下伊那を取りまとめたが信嶺は下条氏を破って下伊那での地位を回復し、その後家康の支配下で下伊那の国衆が取り潰されるなかでも勢力を保った。
天正18年(1590年)に家康が関東に移されると信嶺もこれに従い、武蔵の[[本庄城]]に入った。
関ヶ原の戦い後に信嶺の弟の長巨は旗本として旧領の伊那郡に戻り、この系統は伊豆木小笠原氏と呼ばれる。
一方で信嶺の養子である信之の系統は譜代大名として[[古河藩>古河城]]、[[関宿藩>関宿城]]、高須藩を経て最終的に越前勝山藩に移り明治維新を迎えた。

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|所在地|長野県飯田市松尾・鼎名古熊|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平山城|
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