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日谷城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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加賀・越前の国境という要衝に位置する、加賀一向一揆・朝倉氏・織田氏によって用いられた拠点城郭。
山頂の主郭を中心とし、これに準ずる曲輪が2つあり、そして小規模な曲輪が散在している。それぞれの曲輪は堀切や竪堀、横堀で守られているが統一性に欠けた雑多な防衛線となっており、曲輪間の連絡性は乏しい。
初期の段階では広大な範囲に曲輪が散在しており、朝倉氏の城郭に特徴的な畝状竪堀群も見られ、また織田氏時代には曲輪の散在という防御上の不利を解消するために城域を縮小して新たな防御線を設定したと考えられ、改修・増築を繰り返して現在見られるような形になったと思われる。

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『白山宮荘厳講中記録』によると弘治元年(1555年)7月19日に朝倉宗滴が加賀に侵攻、23日に[[大聖寺城]]と日谷城を攻め落としたと記され、日谷城は加賀一向一揆と朝倉氏の争いが始まった天文年間に一向一揆勢によって築かれたとされる。
永禄10年(1567年)に足利義昭の仲介で加賀一向一揆と朝倉氏が和睦すると、その条件として一向一揆が柏野城・松山城を、朝倉氏が黒谷城・日谷城・大聖寺城を焼却していることから、日谷城は宗滴による攻略後朝倉氏の拠点となっていたと考えられる。
天正3年(1575年)に織田信長が加賀に侵攻して江沼郡・能美郡を制圧し、日谷城は大聖寺城とともに改修されて戸次右近らが入り、加賀・越前国境の城として重要視された。
天正5年(1577年)、手取川の戦いで上杉謙信が柴田勝家らの織田軍を破ったが、南加賀の制圧は行わず越後に帰還した。一方で織田方は御幸塚城に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家軍が入り引き続き南加賀の制圧を進めた。
天正8年(1580年)、加賀一向一揆の拠点[[尾山御坊]]が陥落すると一向一揆勢は周辺の城に籠城し、日谷城には岸田常徳・新四郎父子が籠城した。しかし柴田勝家の謀略により常徳・新四郎以下19人は殺害され、その首は[[安土城]]下に晒されたという。
加賀一向一揆の鎮圧によって加賀・越前国境の軍事的緊張は解消し、重要性を失った日谷城は廃城となった。

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|所在地|石川県加賀市日谷町|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|山城|
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