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御所ヶ谷神籠石 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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御所ヶ谷神籠石は京都郡みやこ町勝山大久保と犀川、行橋市津積にまたがる標高247メートルの岳が辻の山梁の西にあった古代山城である。
昭和の時代に「ごぜがや」と言われていたが、今日では「ごしょがたに」として定着しており、昭和28年(1953年)に国指定史跡「御所ヶ谷神籠石」として指定されていた。
ただ、神籠石と朝鮮式山城の差異については明確ではないという説のもと、現在では「神籠石」の冠は削除され、単に「御所ヶ谷城跡」と名を改めている。
また、大規模な古代山城としてその昔、景行天皇の熊襲征伐の途次、皇居を構えた場所とも言われる。(『豊前志』)
神籠石式山城はそのほどんどが官道沿いかその付近に築かれている。このことから官道の警固または官衙・国府の警備を主とし、有事の際は役人の籠城先とされている。
たしかに豊前国府から約5キロメートル離れた位置にあり、瀬戸内海に面した城であるためその方面の防御を任されていたとすれば妥当である。地理からしておそらくは瀬戸内海を経由して国府へ進入しようとする経路を断つ目的であったであろう。
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他方、歴史学者の福永晋三氏曰く、『日本書紀』にある''「豊前国の長峡県に到りて、行宮を興てて居します。故、其の処を号けて京と曰ふ」''の京(みやこ)とはこの御所ヶ谷神籠石を指すのではないかという。
その場合、神籠石内では最大を誇る円周にも列石群や石塁の高さにもうなずける。くわえて、同氏は「御所ヶ谷神籠石は二世紀に造られ、四世紀に神功皇后に滅ぼされた。」と語る。
これは豊国=倭国説が前提になっているもので、忍熊王が御所ヶ谷に座していたところに神功皇后が攻め入ったのだと説いている。
同氏の説が本当ならば朝鮮式山城と比較され、築城年数を7世紀後期とされてきた神籠石の築城年代が大きく変更されることとなる。さらに、その存在意義も防衛施設ではなく都の性格もあったと考えざるを得ない。
御所ヶ谷の地名も景行天皇の行在のあったところから名づけられており、京都郡の由来自体も景行天皇に関係があるとされることから、まったくの夢想とも切り捨てられない。
現状詳しい資料が少ないためどういった城の様相であったか不明瞭ではあるものの、復元された貴重な神籠石式山城である[[鬼ノ城]]の状態とほとんど変わらない外観だと考えられる。
これは豊国=倭国説が前提になっているもので、忍熊王が御所ヶ谷に座していたところに神功皇后が攻め入った、とする説を前提にした考えであった。
同氏の説が本当ならば朝鮮式山城と比較され、築城年数を7世紀後期とされてきた神籠石の築城年代が大きく変更されることとなる。さらに、その存在意義も防衛施設のみならず都の性格もあったと考えざるを得ない。
御所ヶ谷の地名も景行天皇の行在のあったところから名づけられており、京都郡の由来自体も景行天皇に関係があるとされることから、まったくの夢想とも切り捨てられないだろうが追随する学者が少ないこともまだ事実である。
現状詳しい資料が少ないためどういった城の様相であったか不明瞭ではあるものの、復元された貴重な神籠石式山城である[[鬼ノ城]]の状態とほとんど変わらない外観だと考えていいだろう。
ただ、細かいこと指せば四国・中国地方にある神籠石式系山城と、九州にある神籠石式山城はその特徴の差異から、城の構造・形体がやや異なるとされる。
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|所在地|福岡県京都郡みやこ町勝山大久保|
|現存状態|石塁、列石、水門口|
|城郭構造|古代山城(神籠石式山城)|
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**現存状態 [#h870e7b4]

山梁の南面と北斜面渓谷の東西両側の尾根に近い部分に、切石状の列石とその痕跡が4キロメートルにわたり残っている。
北斜面の東方、中央、西方の渓谷に東の門、中の門、西の門の石塁があり、特に中の門の石塁は高さ6メートル、長さ30メートル余りのもので、切石をもって上下二段で構築された。
その基部には、凹の字に組んだ石が石塁からはみ出た状態の「石樋(せきひ)」と呼ばれる精巧な水門口がある。
西之門付近には馬立て場と称する石積が、そして東の門にも石塁と列石が残っている。
神籠石の中で最も防御性に優れたとされる御所ヶ谷神籠石の石塁群は特に保存がよい。神籠石を知る上での代表格とされた。
いまではすっかり整備され、実際に城址を見学することができる。苔の生した列石は言葉にし難い情緒を孕んでいるので、見学の際には是非とも見ておきたい。
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**神籠石について [#i3289c14]

日本城郭検定でも登場する築城形式の一つではあるが、そこまで詳しくない者からすればいったい何故この名前が付けられているのか謎であろう。
神籠石式山城の問題は『日本書紀』の『天智紀』に記された他の朝鮮式山城と違い、いっさいの記述が存在しない状態で遺構のみが残っていることに起因する。
明治から昭和にかけて霊域説と城郭説の両派に分かれ苛烈な討論が繰り広げられた所謂「神籠石論争」からも分かるように、仕方なく遺構から推察する以外に術のない状態であった。
論争の発端は明治31年(1898年)に小林庄次郎氏の報告にまで遡る。小林氏により筑後の高良山が踏査され「神籠石」と呼ばれる列石の報告があがった。
小林氏は神籠石=霊域であるという説を唱えていたが、明治33年(1900年)に女山、雷山、鹿毛馬の列石を調査した八木奬三郎氏は神籠石が古代山城に由来する城郭説を唱えた。
また同氏は神籠石の存在がすでに昔から現地の人々や訪れた人間に認識されていたことを併せて報告している。
福岡藩医である貝原益軒の著書『筑前国続風土記』の『怡土郡(22巻)』((西ヶ谷泰弘氏の『日本史小百科 城郭』では『筑後国風土記』を貝原編纂の書とし、ここに「香合石」の記載があるかのように紹介されているが、貝原が編纂した書は『筑前国続風土記』であるため誤りである))に登場する香合石(こうごうせき)((雷山に所縁のある逸話や踏査した際の様子が書かれている項目で紹介あり))の部分がそれに当たるとしたのだ。
呼び名の由来も同書に明記されており、「其形方にして、蓋をしたるが如く成、合わせて有て、かうばこの如し。故に香合石と云。」と説明がある。
香合石のほか、続けざまに''「神護石」''という呼び名も紹介されている。この呼び名が変遷し神籠石の名称が発生したと考えたのだ。
残念ながら「神籠石」の名称の由来は八木氏が示した文献よりも以前に求めることが出来る。久留米市の高良大社の由来を著した『高良玉垂宮縁起』がその名称登場の最古であり、縁起の編纂は鎌倉時代よりも前に成立したとされる。
確かに久留米では昔より高良山の遺跡は神籠石と呼ばれており、霊域説を唱えた小林氏はその地元での呼び名を当時より用いたのだ。
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霊域説の論が発生した背景には少なからず『日本書紀』『続日本紀』が関係している。
もちろん、遺構の調査が不十分な状態で推論が展開されたことにも原因はあるが、仲哀天皇・神功皇后を中心に熊襲(くまそ)討伐や羽白熊鷲の討伐の伝説が貝原の書でも説明されており、この項をもって霊域説の考えが自然発生したと推察できる。
小林氏と八木氏の調査結果では収まらず、「霊域か城郭か」の論争の決着には数十年という年月を要した。煮え切らない状況に一石が投じられるのは戦後しばらく経ってからであった。
昭和34年(1959年)に原田大六氏が''『神籠石の諸問題』''を発表し、大陸からの防備を論拠に城郭である説を論じる。
続けざまに昭和36年(1961年)には坪井清足氏が森貞次郎氏の論をもとに九州国内の契機が神籠石を生み出したとする城郭説を唱え、以後多数の考古学調査により城郭説が定着した。
現在では文献に記述のない城は「神籠石式山城」と呼ばれているが、中世末に記された『高良紀』に因るともともとは八葉之石畳を作っている間、神様を鎮座させる一旦の避難場所を示すようだ。
それが時を経て八葉之石畳そのものを指し、現在では磐座(いわくら)((本来は神が坐る絶対の場所を指す。巨石信仰が根強い九州をその発祥とし、福岡県の細石神社などもその巨石信仰を継承する古社である。))を神籠石と呼ぶ。その認識の変化は昭和56年(1981年)の『久留米市史』に求めることができる。
この高良山および高良大社に残る信仰と神籠石の名称が小林氏の霊域説に確信を与えてしまい、あらゆる場所にその城郭構造が残るにも拘わらず、結論ありきの考えが先行し踏査を曇らせてしまった。
なお、学界大多数の認識としては神籠石式山城も広義には朝鮮式山城と言われており、両者を総称した名称として「古代山城」を用いることが多くなってきている。

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&color(White,Maroon){神籠石式山城と朝鮮半島の山城との共通点(クリックで表示)};
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**神籠石式山城と朝鮮半島の山城との共通点 [#n882a6a1]

朝鮮半島の古代山城の列石の特徴と神籠石の特徴においては正直なところ大きく異なり、神籠石式山城における一段だけの列石は、現在のところ百済の時代に築城されたであろう金馬都土城にその類似点を見るのみである。
金馬都土城の城周はそれほど大きくはなく、450メートル程度と小規模な山城であるが、日本の古代山城との比較をおこなう上で重要な城であることに違いはない。
北壁側の土塁調査によって内托版築土塁の外面基部に厚さ20センチほどで長方形の割石が確認された。東の壁側にも同様の工法と列石が確認されている。
他方、北部九州型神籠石式山城の石材加工(切石前面上部鍵型加工)と同様の技法を以て切り出された列石群は、朝鮮半島における発掘調査や研究でははっきりとした解答がなく、いまだその全貌の解明には至っていない状態である。
朴淳發氏は益山王宮里遺跡の''墻''(かき)の石材加工が似ていると主張するが、いまのところ推論の域を脱しない。もっと発掘調査、現地踏査、新たな文献の発見が進めば現状の進展は望めるであろう。
以上、築城工法の基礎部分においてはいくつかの共通点を見出すことはできるものの、肝心な切石・列石部分は神籠石式山城独自の技巧が目立ち、朝鮮半島の古代山城との明確な類似点は発見されていないのだ。

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