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小机城 の変更点

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後北条氏による南武蔵支配を担った、後北条氏の家臣団・小机衆の本拠地で、南武蔵を代表する城郭の一つ。
築城時期は明らかになっていないが、『鎌倉大草紙』には応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で足利持仲の軍勢が小机に進出したと記され、「太田道灌状」や『管領鎌倉九代記』に文明10年(1478年)に長尾景春の乱のなかで景春に与し、「小机要害」に籠もった豊島氏を太田道灌が破ったとあることから、15世紀には築城されていたと考えられる。
築城時期は明らかになっていないが、『鎌倉大草紙』には応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で足利持仲の軍勢が小机に進出したと記され、「太田道灌状」や『管領鎌倉九代記』に文明10年(1478年)に長尾景春の乱のなかで景春に与し、「小机要害」に籠もった豊島氏((※「太田道灌状」には小机に籠もった敵が豊島であるとは記されておらず、他の勢力とする説が有力である))を太田道灌が破ったとあることから、15世紀には築城されていたと考えられる。
この時道灌は「小机は まづ手習いの はじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」と詠み、兵の士気を高めたという伝承がある。
その後小机地域は景春と山内上杉氏の家宰職を争った権現山城主長尾忠景が支配し、小机城には成田氏が城代として入った。
16世紀に入ると後北条氏が武蔵国に進出し、大永4年(1524年)に北条氏綱が[[江戸城]]を攻略した頃には、後北条氏による小机地域の支配は確立していたとされる。

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小机城は[[小田原城]]の支城として、現在の横浜市北部と川崎市にあたる地域を小机領として統治し、当初は[[玉縄城]]主が小机城主を兼務する形となり、小机城には城代として北条早雲・氏綱・氏康の3代に仕えた重臣・笠原信為が入った。
弘治3年(1557年)に信為が死去すると北条時長が城主となり、氏尭、三郎、氏光と続いたが、笠原氏が城代として小机城を取り仕切っていた。
永禄2年(1559年)に作成された『小田原衆所領役帳』には城主時長をはじめとする29人の小机衆が記されており、小机城はこの頃には小机衆とその知行地を一括で管理する南武蔵支配の拠点となり、改修が進められた。
小机城は鶴見川に突き出た丘陵先端部に築かれ、東西を湿地帯が囲む天然の要害となっており、後北条氏の城に特徴的な長大な横堀が主郭部を囲み、その幅は最大で20メートル近くに達する部分もある。
主郭部は大きく東曲輪と西曲輪に分かれ、方形の曲輪に枡形虎口を設け周囲を土塁で囲んだ西曲輪の方が後の時代に築かれたと考えられ、この2つの曲輪はつなぎ曲輪と呼ばれる細長い曲輪でつながれていた。
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天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、城主の氏光は初め小机衆を率いて[[足柄城]]に在城、次いで小田原城に籠城し、小机城では豊臣勢との戦いや落城の記録は無く、無傷で開城したと考えられている。
その後徳川家康が関東に入ったのに伴い、廃城となった。
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昭和40年(1965年)に第三京浜道路が開通したことで西曲輪の西側は破壊され、城域は道路の東側の主郭部と、道路を挟んで向かい側の出丸とに分断された。
平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|神奈川県横浜市港北区小机町|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|連郭式平山城|
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