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守山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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守山城は[[那古野城]]の東の守りを担う支城の1つであった平山城であり、森山(守山)崩れが起こった城として知られている。
大永元年(1521年)に今川氏豊が那古野城を築いた際に、三河の松平信定がその支城である小幡城などに対応するため築いたとされ、大永6年(1526年)などの記録からしばらくは信定が治めていたと見られている。
しかし天文年間に入るころには勝幡織田氏の勢力が当地まで及び、織田信秀の弟である織田信光が城主となり、織田氏と松平氏の勢力圏の境目をなすようになった。
しかし天文年間に入るころには[[勝幡>勝幡城]]織田氏の勢力が当地まで及び、織田信秀の弟である織田信光が城主となり、織田氏と松平氏の勢力圏の境目をなすようになった。
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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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天文4年(1535年)に織田信光は松平清康に内通し、松平氏の軍勢を守山城下に引き入れた。
しかし、その陣中で松平清康は家臣阿部正豊に突如斬殺されてしまい、松平氏は混乱の中三河に引き上げることになってしまった。
これが『森山(守山)崩れ』であり、原因は正豊が陣中で起こった放馬を織田信秀への内通を疑われていた父阿部定吉が誅殺されたものと勘違いしたためとされている。
しかし、当時の松平家中では松平信定が清康を排除して自身が当主になろうという野心を見せており、織田信光が彼の娘婿であることから、そもそもが清康を殺害するための信定の謀略であったという説もある。
いずれにせよ、清康の代に三河一国をほぼ勢力下に入れ、尾張東部も奪うなど全盛期を迎えていた安祥松平家はこれをきっかけとして一気に勢力を失うこととなり、三河は織田氏と今川氏の草刈場となっていった。
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弘治元年(1555年)に織田信長が[[清洲城]]に移り、信光が那古野城を譲られると、信光の弟である信次が城主となったが、信次は家臣が信長の弟秀孝を誤って射殺したために出奔してしまう。
攻め寄せた信長勢と守山城に立てこもった家老角田新五らのにらみあいは信長の異母弟信時が城主として入ることで決着を見たが、その後、信時と角田新五が対立し信時が自刃に追いやられるなど、混乱が続いた。
この事態を受けて、帰参を許された信次が再度城主となり、ようやく安定を取り戻したという。
その後の守山城は特に記録に出てくることもなく、桶狭間の合戦後には廃城になったとも、小牧長久手の戦いの頃に廃城になったともいう。
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城跡とされる丘には松平清康を弔うために建立されたという宝勝寺があり、その裏手の藪の中に空堀や土塁などが残されている。

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|所在地|愛知県名古屋市守山区市場|
|現存状態|土塁、空堀|
|城郭構造|平山城|
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**森山崩れと妖刀村正 [#ade39b19]

徳川家康が千子村正を忌避したという、いわゆる妖刀村正伝説は『名将言行録』などの影響で広く流布しているが、その原因の一つとして森山崩れがあげられることがある。
阿部正豊が清康に斬りかかった時に使っていた刀が千子村正であったというのがその論説である。
しかし、家康が村正を忌避していたという証拠は一次史料には全く見られず、むしろ尾張徳川家は家康の形見として村正を伝承しているため、後世の創作に過ぎないというのが現在の主説である。
そもそも村正は伊勢国の刀工であり、そこから連なる村正一派は実用的な刀を数打ちすることを主としていたことから、近場である三河武士も村正を多く所持しており、単に普及率が高かったとも言われる。

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