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堀越城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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[[高岡城]]が言及する城。
大浦氏の最盛期を築いて津軽地方を支配し、津軽姓を称して津軽氏の祖となった大浦為信(津軽為信)最後の居城。
大浦氏は甲斐源氏の流れをくむ南部氏の庶流・南部久慈氏の一族である南部光信を祖とし、光信は当初種里城を居城としたが後に大浦城に移り大浦氏を称した。
堀越城は南北朝時代の建武3年(1336年)に、北朝方の武将である曽我貞光が築いたことに始まる。築城当時の規模やその後の変遷は不明だが、為信の実父とされる武田甚三郎守信の居城となり、その後大浦氏に養子として入った為信が所有し本城である大浦城の支城となった。
為信は元亀2年(1571年)に南部氏から独立し、堀越城から出撃して南部氏の重臣である石川高信の[[石川城]]を攻略した。南部氏の家中分裂に乗じた為信は津軽地方一帯を制圧し、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して本領を安堵され、独立した大名として認められた。
文禄3年(1594年)、為信は大浦城から堀越城に本拠を移した。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、家臣の反乱で城が占拠されるなど軍事面で不十分だったため、為信は慶長8年(1603年)から[[鷹岡城>高岡城]]を築き始めたが、築城途中の慶長12年(1607年)に京で死去した。

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堀越城は津軽平野南部のやや東寄りの平野部に位置する平城で、基本的には堀と土塁による人為的な高低差が守りの要となる土の城だった。
城域のやや南東寄りの中央部に本丸が置かれ、その北西に二の丸と小丸、東側に三の丸、そして城城の南縁には外構、北縁に北の曲輪が配置された。このような本丸を中心とする求心的な縄張は、発掘調査によって為信が堀越城に本拠を移転した際の改修によるものと判明している。
それぞれの曲輪は堀が取り囲み、外構の南縁には前川が東流し天然の水堀となっている。本丸西虎口とは土橋で接続された二の丸は南・北・西を土塁で囲まれた小規模で閉鎖的な曲輪で、本丸東虎口と復元された木橋でつながる三の丸には複数の大型掘立柱建物があり、家臣団の屋敷地であったと考えられる。
礎石建物は本丸にのみ確認され、為信が堀越城を本拠としていた16世紀末から17世紀初頭の津軽地方における不穏な政治状況下で、中央政権とのつながりを示すために導入したとされる。特に本丸東門は、対立していた南部氏の旧勢力圏である岩木川東岸域に対して威容を示すために建築されたと思われる。
もっとも石垣を持たない堀越城は城・城下ともに後に津軽氏の本拠となる[[弘前城]]よりも小規模であり、近世大名の居城としては不十分だった。弘前城は慶長16年(1611年)に完成して堀越城は本拠としての役割を終え、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。
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廃城後の堀越城は同時代の文献史料がほとんど無いことから長くその実態は不明瞭だったが、昭和60年(1985年)に弘前城に追加される形で国の史跡に指定され、指定名称が「津軽氏城跡 堀越城跡 弘前城跡」となった。
さらに平成14年(2002年)には大浦氏の祖・大浦光信が本拠とした種里城も追加され、指定名称が「津軽氏城跡 種里城跡 堀越城跡 弘前城跡」に改められた。
これらの史跡指定を経て、平成10年(1998年)度から平成25年(2013年)度にかけての弘前市による発掘調査で堀越城の様相は徐々に明らかとなってきており、さらに平成24年(2012年)度から本格化した整備事業によって公開環境が向上し、2020年春の全面公開を目指した整備が現在も進行している。

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|所在地|青森県弘前市堀越|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平城|

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