Top > 城塞都市ハットゥシャ


*現実の城情報 [#information]

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古代オリエント世界において、小アジアを中心に強勢を誇ったヒッタイトの都。
前17世紀頃に建国されたヒッタイトは、前16世紀頃のハットゥシリ1世の治世で小アジアの中央部、現在のボアズカレ(旧名ボアズキョイ)にあったハットゥシャを都とし、高度な鉄製武器の使用という優位によって前14世紀頃に最盛期を迎えた。
ハットゥシャは山間地域に位置する天然の要害で、南北に長い卵のような形となっている。当初は北端の旧市街の領域のみだったが、ヒッタイトの繁栄に伴って南方の高地に向けて新市街が拡張されていった。
新旧両市街はともに強固な二重城壁に囲まれ、外城壁は小規模だが主城壁である内城壁はより高く堅固な造りとなっており、要所には塔が構えられ城門が開かれていた。
城門は「獅子門」と「王の門」がよく残っており、「獅子門」は城門の左右の立石にライオンが彫刻されている。これは百獣の王であるライオンが城門を守護するという発想によるもので、後にオリエントで繁栄したアッシリアにも受け継がれる。

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「王の門」は城門の両側に勝利の神を彫刻していることから「神の門」とも呼ばれ、その神像はヒッタイト彫刻の傑作としてアンカラのアナトリア文明博物館に収められている。
南端に設けられた「大地の門」は特殊な構造となっており、城壁の下をくぐって城外に抜け出ることが可能で、ここから敵軍に向けて出撃したり緊急事態には城外に脱出したりできるようになっていた。
このように城壁によって強固に守られたハットゥシャだが、城内にも複数の城砦が築かれ、特に新市街の東北部に位置する主城砦は「偉大な城砦」と呼ばれ、王宮なども置かれたハットゥシャの中心部として堅固な石造城壁で囲まれた。
さらにこの主城砦のすぐ南には南城砦が築かれて主城砦の前面を防御し、新市街の南西部にも新城砦が構えられた。
オリエントにおいて城壁をめぐらせた都市は古くからあったが、ハットゥシャのように城壁内に大規模な城砦を築いた例はなく、ヒッタイトの時代にこのように本格的な城塞都市が発展していったと考えられる。
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ヒッタイトは最盛期の前14~13世紀にシリアにまで領土を拡大したが、この時代は同時にエジプト新王国の最盛期でもあり、両者はシリアで度々衝突した。
特に前13世紀のカデシュの戦いはよく知られ、ヒッタイト王ムワタリ2世とエジプトのファラオ・ラムセス2世がシリアの城塞都市カデシュをめぐって激突した。
戦いは痛み分けに終わり、ハットゥシャから出土した粘土板に講和の文章が記されており、世界最古の平和条約とされる。
ムワタリ2世はその後ヒッタイトの都をシリアに近いタルフンタッサに移したが、その子ムルシリ3世はハットゥシャに都を戻し、以後ヒッタイトは滅亡するまでハットゥシャを都とした。
このように強勢を誇ったヒッタイトだが、やがて内紛や反乱によって弱体化していき、大規模な気候変動や「海の民」の侵攻もあり、前1200年頃に滅亡した。
その後は廃墟となったハットゥシャだが1906年からドイツ人考古学者フーゴー・ウィンクラーによって行われた発掘調査でその全容がほぼ明らかとなり、1986年には「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」として世界遺産に登録された。

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|所在地|トルコ、チョルム県ボアズカレ郡ボアズカレ|
|現存状態|城壁、城門など|
|城郭構造|城塞都市|
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