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土浦城 の変更点

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「常陸の不死鳥」として知られる小田氏治を輩出した小田氏に代々仕え、忠義を尽くした菅谷氏の居城。
天慶年間(938~947年)に平将門が砦を築いたという伝説があり、文献上は鎌倉時代の常陸守護・八田知家の一族にあたる小田氏に属する今泉(若泉)三郎が、永享年間(1429~1441年)に築いたのが始まりとされる。
霞ヶ浦に注ぐ桜川の河口に近い低地に築かれ、付近の沼地や河川などの自然地形を巧みに活用し、五重の堀が巡らされた。
土浦は度々水害に遭っているが城は水没することなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから「亀城」の異名を持つ。

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土浦城は今泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の重臣である菅谷勝貞に奪われ、同じく小田氏の家臣である信太範貞が城主を務めたのち、その養子となった勝貞の居城となった。
以後土浦城は菅谷氏3代の居城となり、小田氏治に仕え小田四天王に数えられる菅谷政貞は、主君である氏治が居城の[[小田城]]を奪われた際に土浦城に迎え、度々小田城を奪回している。
しかし氏治は手這坂の戦いで佐竹義重・太田資正に敗れて小田城を最終的に失い、土浦城もまた落城した。
氏治・政貞は後北条氏の支援を得て土浦城を奪回し、小田城の奪回も図って佐竹氏と抗争を繰り広げる状況が続いた。
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天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、政貞・範政父子は氏治とともに後北条氏に与し、豊臣方の佐竹氏と戦ったため所領を没収され、土浦城は新たに関東に入った徳川家康の次男・結城秀康に与えられた。
江戸時代には藤井松平氏・西尾氏・朽木氏・土屋氏・大河内松平氏が代るがわる城主を務め、土浦城を近世城郭に改修した。
城内には五街道に準ずる脇街道である水戸街道が取り込まれ、水運の利用も盛んとなり、城下町は宿場町として栄えた。
城主は貞享4年(1687年)に土屋政直が入ってから安定し、常陸国では水戸藩につぐ9万5000石の大藩として、土屋氏が10代にわたって支配し明治維新を迎えた。

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|所在地|茨城県土浦市|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|輪郭式平城|

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