Top > 国府台城

国府台城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

「こうのだい」と読む。別名を鴻ノ台城・市河(市川)城。ただし市河城はもっと南にあった別の城とも言われ説が別れている。
「こうのだい」と読む。別名を鴻ノ台城・市河(市川)城。ただし市河城はもっと南にあった別の城とも言われ説が分かれている。
名前の通り下総国府が置かれた付近の高台に築かれた。台地下に江戸川(当時は太日川または大井川)が流れ、市河津が開かれて水陸の拠点だった。
しかし千葉氏の勃興と共に下総の政治的中心は千葉(亥鼻)のち佐倉に移り、国府台周辺は下総の玄関口として軍事上の要衝となった。
享徳の乱(1455~1483年)に関連した下総千葉氏の内紛で千葉氏嫡流の千葉実胤・自胤兄弟は市河城を経由して武蔵に落ち延びた。
それを保護した扇谷上杉家が千葉兄弟を支援して下総に侵攻したとき、扇谷家の名将太田道灌が築いた陣城が国府台城の始まりとされる。
付近の河岸台地上には他にも相模台城・松戸城などの城が築かれ、二度(近年の研究では三度ともされる)にわたる激戦・国府台合戦の舞台となったことで知られる。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

実胤は扇谷家配下の[[石浜城]]主となったがのちに若くして隠棲((讒言された主君の身代わりとなったともされる))して旧領奪回は弟の自胤に託され、扇谷家は太田道灌を援軍として下総に向けた。
文明10(1478)年、前年勃発した長尾景春の乱に同調した千葉孝胤(古河公方方)を攻撃するため、道灌は千葉自胤と共に下総に侵攻。
文明10年(1478年)、前年勃発した長尾景春の乱に同調した千葉孝胤(古河公方方)を攻撃するため、道灌は千葉自胤と共に下総に侵攻。
この時道灌は陣城を構えて境根原合戦に臨み、多忙な道灌が他戦線に転じた後に道灌の弟の太田資忠が本格的な城に改築した。
しかし資忠は翌年7月の[[臼井城]]の戦いで戦死したとされるため、この説には築城の時間が足りたのかなどやや疑問が残る。
しかし資忠は翌年7月の[[臼井城]]の戦いで戦死したとされるため、この説には築城の時間が足りたのかなど、やや疑問が残る。
この時付近の古墳を崩したりつなげたりして土塁を作ったため、6世紀頃の豪族墓とされる明戸古墳では石棺がむき出しになっている。
境根原合戦・臼井城の戦いは太田&千葉自胤側の勝利に終わるが、下総には既に千葉孝胤((本佐倉城を築いた岩橋輔胤の息子。千葉氏当主を名乗った))の勢力が根付いていたため定着できずに武蔵に戻った。
境根原合戦・臼井城の戦いは太田・千葉自胤側の勝利に終わるが、下総には既に千葉孝胤((本佐倉城を築いた岩橋輔胤の息子。千葉氏当主を名乗った))の勢力が根付いていたため定着できずに武蔵に戻った。
#br
その後は孝胤以下下総千葉氏の勢力圏となり、太日川を挟んで扇谷上杉、扇谷の衰退後は北条家との勢力境界線上の城になった。
そして天文7年と永禄7年の二度の国府台合戦の舞台となる(後述)。なお近年の説ではこれに加えて永禄6年にも合戦があったとする。
国府台合戦の後は北条氏の支配下となったが、小田原征伐により廃城となった。徳川家康が江戸を一望する立地を危険視して廃させたともいう。
浮世絵師歌川広重の『名所江戸百景』には江戸を挟んで富士山まで見渡せる絶景の地として紹介されており、観光地だったらしい。
明治以降は城跡隣接地に陸軍衛戍病院(現在は移転して国立国際医療研究センター国府台病院)が作られ、大戦中には高射砲陣地になった。
戦前には城跡の一部が里見八景園という遊園地(現在の里見公園の前身)となっていた時代もある。
現在は里見公園として整備されたほか、軍用地跡の一帯には各種中高大学のキャンパスが立ち並んでいるため、どこまでが国府台城(あるいは市河城)の跡地かはわかりづらい。

}}}


|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|千葉県市川市国府台|
|現存状態|土塁、物見台、堀|
|城郭構造|連郭式平山城|

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){国府台合戦(クリックで表示)};
}}}
#style(class=submenu){{{

**国府台合戦
***第一次国府台合戦
第一次国府台合戦は天文7(1538)年に起きた。古河公方と古河公方から分かれた小弓公方との戦いであり、里見・北条はそれへの援軍であった。
従来この時の小弓公方足利義明の目標は鎌倉侵攻とされたが、現在は古河公方の重要拠点[[関宿城]]への攻撃を企図し太日川を抑える動きとされる。
足利義明は里見義堯・真里谷信応など安房・上総勢1万を率いて国府台に着陣。対する北条氏綱・氏康以下2万の北条勢は[[葛西城]]に入った。
北条勢は大藤金石斎の進言により、関宿方面への小弓勢の北上を防ぐため太日川を敵前渡河。国府台の北・相模台で小弓勢と激突する。
緒戦こそ小弓勢の勢いが勝ったが次第に数に勝る北条勢が押し返し、足利義明の弟基頼・息子義純が討死すると義明も突撃するが討ち死にした。
実はこの時渡河中を狙うべしと里見義堯が主張したが足利義明に却下され、ただでさえ低かった里見の士気は更に低下した。
里見勢は義明戦死と聞くや否や一戦も交えることなく戦線を離脱、温存した兵力で小弓公方が滅んで空白となった上総に侵攻して支配地を広げた。
勝った北条方は下総千葉氏への影響力を強めることとなったが、里見も千葉氏に誘いをかけており千葉家中は動揺することになる。

***第二次国府台合戦
第二次国府台合戦は永禄7(1564)年正月に起きた。第一次合戦の後国府台には千葉氏重臣高城胤吉・胤辰が入り、北条との連絡線を形成した。
前年の永禄6年1月、北条氏康と武田信玄に[[武蔵松山城]]を攻められた上杉謙信から援軍を求められ、里見義弘が国府台で北条・千葉勢と戦った。
この戦いが永禄7年の合戦と混同され、天文の合戦とあわせて第二次合戦と呼ばれた。しかし実際には二年で二回戦いがあったとされる。
ここでは通説どおり永禄7年の合戦を第二次と呼ぶが、これは太田資正の[[岩槻城]]支援に出兵した里見勢とこれを阻止する北条勢の合戦だった。
この時里見勢は岩槻城に搬入する((上杉謙信への後方支援と言う説も有り))兵糧を市川で調達しようとしたが難航、これを知った千葉氏・高城氏が北条の出兵を要請した。
北条勢は第一次合戦のときと同じように[[江戸城]]から葛西城に展開し、里見義弘はこれを排除するため国府台城周辺に布陣した。
北条家の陣容は氏康、氏政・氏照・氏邦の兄弟に加え北条綱重(幻庵の子)、北条綱成一門、伊勢貞運などの一門衆。更に松田憲秀、大道寺、笠原、多目、清水などの重臣、江戸衆の遠山綱景、富永康景(直勝)、太田康資など主力・精鋭が揃っていた。
しかしここで江戸衆の太田康資が離反、太田資正を頼って里見側に寝返った。北条家中での扱いに不満を抱いていたとされる。
この離反に責任を感じたか、遠山綱景、富永康景(二人とも江戸衆)は戦備が整う前に里見勢に突撃したが揃って戦死してしまう。
この時遠山を討ったのは離反した康資本人であったと言われるが定かでない。初戦の勝利に里見義弘は陣中で酒を振る舞ったという。
しかしこの夜の間に北条勢は態勢を立て直し、密かに北条綱成・松田憲秀が渡河。氏康もこれに続き、夜明けと共に国府台の里見陣を攻めた。さらに氏政以下の本隊も呼応して川を押し渡り国府台に突入する。
挟撃された形になった里見勢も幾度か押し返すなど奮戦するものの、正木信茂・安西実元といった重臣を失い大敗を喫して敗走した。
北条家はこの戦いに勝ったことで下総を完全に影響下に置き上総にも進出する。しかし敗れた里見義尭・義弘親子も抗戦しつづけた。
戦前に離反した太田康資は北条家に戻れず下総に落ち延び、以降の消息は不詳(資正に従ったという説も有り)。資正も下総で潜伏して数ヵ月後岩槻に帰るが、息子氏資によって岩槻城を追われ常陸の佐竹に身を寄せることになった。

}}}

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){夜泣き石(クリックで表示)};
}}}
#style(class=submenu){{{

***夜泣き石

第二次国府台合戦で討たれた里見一門の里見広次(弘次とも)の娘が父の霊を弔うために国府台までやってきた。
しかしあまりに悲惨な戦場の光景に悲しみ、この大石にもたれて泣き続け、悲嘆のあまりにやがてそのまま死んでしまった。
その後この石から夜毎に泣き声が聞こえるようになり夜泣き石と呼ばれたが、後に通りがかった武士が厚く供養をすると泣き声は止んだという。
なお国府台合戦で討たれた里見広次は里見義弘の甥とされ、この戦いが初陣で15歳であったと記録されているため、娘がいた可能性は低い。


}}}

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS